ドイツの社会哲学者ユルゲン・ハーバーマスさん(1929〜2026年)が3月に96歳で亡くなった。広範な知識に裏打ちされた理論で資本主義の弊害と民主主義の可能性を提示し、世界に大きな影響を与えた思想家である。没後間もなく刊行された『ハーバーマス回想録』(岩波書店)の翻訳者で、長年にわたり交流のあった三島憲一・大阪大名誉教授(83)に、その業績と人柄を振り返ってもらった。
ハーバーマスの思想と業績
三島名誉教授によれば、ハーバーマスは1980年代以降の世界を代表する社会哲学者である。国連のグテレス事務総長は弔辞で「最も影響を受けた思想家」と述べている。社会哲学は18、19世紀のカント、ヘーゲル、マルクスの時代から続く、社会のあり方を探求する学問だ。ハーバーマスは彼らの知的遺産を基盤に、20世紀の社会学や英米の分析哲学の方法を取り入れ、独自の理論を構築した。
資本主義批判と民主主義の可能性
ハーバーマスの原点にはマルクスの資本主義批判があるが、資本主義を完全に否定するわけではない。彼が学者として頭角を現した1960年代の西ドイツは、戦後復興を果たし複雑な経済社会として機能していた。彼は資本主義社会の現実を受け入れつつ、自由な言論や民主主義にもたらす弊害を批判し、注目を集めた。
彼が重視したのは「言い負かす」と「納得してもらう」の区別である。例えば原発問題では、官僚や企業の専門家が自らの利害に基づく「現実」を振りかざして言い負かそうとするが、一般市民は腑に落ちない。言葉は本来、互いに納得するためにあるはずだ。ハーバーマスは、社会の矛盾や問題に最も敏感なのはエリートではなく、周辺や末端に追いやられ犠牲を強いられる人々だと考えた。そうした人々の意見を公的な議論の場に取り入れ、妥当な解決策を話し合うことが本来の民主主義のあり方だと主張した。
人柄と交流
三島名誉教授は、ハーバーマスが初めて来日講演した1981年に通訳を務めて以来、45年にわたる交流があった。ハーバーマスの自宅はミュンヘン郊外、森鷗外の小説『うたかたの記』の舞台となったシュタルンベルク湖の近くにあり、何度も訪れたという。普段は軽口をたたくおしゃべり好きで、サッカーも愛好していた。女子ワールドカップで日本が優勝した際には祝福のメールを送ってきた。
サッカーに関連して、国歌斉唱を嫌っていたというエピソードも紹介された。ナチス時代を経験した彼は、国家権力に対する強い懐疑心を持っていた。『ハーバーマス回想録』の冒頭でも「ナチ時代の悪用に理由があります」と述べている。
初学者への推薦図書
ハーバーマスの著作はどれも難解だが、初学者には1970年代に西ドイツでベストセラーとなった『後期資本主義における正統化の問題』(岩波文庫)などがおすすめだ。また、自身の半生を振り返ったこの回想録も手元に置いてほしいと三島名誉教授は語る。
プロフィール
ユルゲン・ハーバーマスは1929年6月、ドイツ・デュッセルドルフ生まれ。ゲッティンゲン大学やボン大学で哲学、歴史学、社会学、経済学を学び、ハイデルベルク大学教授、フランクフルト大学教授、マックス・プランク研究所所長を歴任した。主な著書に『公共性の構造転換』『コミュニケイション的行為の理論』『事実性と妥当性』(いずれも未来社から邦訳)。2026年3月、96歳で死去した。
三島憲一さんは1942年11月、東京生まれ。大阪大学名誉教授。専攻は社会哲学、ドイツ思想史。主な著書に『ベンヤミン 破壊・収集・記憶』『ニーチェ かく語りき』(岩波現代文庫)。ハーバーマス『近代 未完のプロジェクト』(同)、レーヴィット『ヘーゲルからニーチェへ』(岩波文庫)など訳書多数。



