武田信玄よりずっと怖い…織田信長が最も恐れ手紙で媚びるしかなかった理屈が通じない戦国大名
武田信玄より怖い…信長が恐れた理屈通じぬ戦国大名

2026年5月にプレジデントオンラインで反響の大きかった人気記事ベスト3のうち、歴史・雑学部門第2位を紹介する。テーマは「武田信玄よりずっと怖い…織田信長が最も恐れ、手紙で媚びるしかなかった『理屈が通じない戦国大名』」である。

信長が恐れた男、上杉謙信

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第19回(5月17日)では、織田軍と上杉軍が激突する「手取川の戦い」が描かれた。上杉謙信といえば、武田信玄と並んで「信長が恐れた男」として知られる。しかし信長が謙信を恐れた理由は、その軍事的強さだけではなかった。ルポライターの昼間たかし氏が文献を基に史実をひも解く。

信長視点に立つと、信玄は脅威であるが思考が読める相手だった。行動原理は極めて単純で、突き詰めれば「損得」である。領土が欲しい、上洛したい、有利な立場を確保したい――だから調略も効くし、外交交渉も通じる。実際、信長は信玄と長年にわたって書状のやり取りを重ね、一時は信忠と娘の松姫が婚約に至るなど友好関係を保っていた時期もある。近年発見された書状には、信玄が信長に対して「越後(上杉氏)と甲斐(武田氏)が戦争になったら、何をおいてもお味方くださるとのこと、頼もしく存じます」と謝意を伝える内容のものまである。あくまでうわべの外交儀礼とはいえ、時には組める相手、交渉次第でどうにかなると考えていたことは間違いない。

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理屈が通じない謙信の怖さ

一方、謙信への恐れは別格だった。謙信の行動原理は信玄とは根本的に異なり、損得ではなく「義」や「信仰」に基づいていた。そのため、調略も外交も通用せず、信長は手紙で媚びるしかなかった。信長は謙信に対して、自らの弱みを見せるような書状を送り、関係を維持しようと苦心したという。この「読めなさ」こそが、信長にとって最大の脅威だった。

手取川の戦いとその後

1577年、七尾城の落城後に加賀国手取川で両軍は激突。上杉軍を迎え撃った羽柴秀吉と柴田勝家だったが、秀吉が無断で離脱したこともあり織田軍は大敗したとされる。謙信も手取川の戦いの翌年1578年に死去。広く知られる脳溢血による急死は江戸時代に唱えられた説であり、ドラマではどのように描かれるか注目される。

ともあれ確かなのは、謙信が信長にとって恐れるべき強敵であったことだ。徳川家康のように「恐れた男」が多すぎるのとは対照的に、信長が恐れた男は意外に少ない。その中で信玄と謙信は二大巨頭だが、謙信への恐れは別格だったのである。

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