青森市の夏を彩るねぶたは戦時中、運行が中止されたが、実は戦争末期の1944年に一度だけ実施されていた。市内の市民団体が保存する写真には、当時の時代背景を反映したねぶたや、翌45年の青森空襲で焼失することになる市中心部の風景が記録されている。実際に運行を見た人は「今とは全く違うねぶたが出る、特殊な時代だった」と振り返る。
戦意高揚狙う
「アメリカをやっつけろ、その指導者のルーズベルトをやっつけろと学校で言われていたから、このねぶただけは覚えている」
当時8歳だった青森市浪打の平井潤治さん(90)は、現在の同市本町で家族と運行を見物した時のおぼろげな記憶を語る。
44年8月、市中心部で計18台のねぶたが出陣した。モノクロ写真が写すのはそのうちの1台とされるもの。桃太郎が当時のルーズベルト米大統領に馬乗りになり殴りつけているような人形ねぶただ。鬼退治のようなシーンを、幼い子どもたちが周囲で見つめている。
ねぶた運行は日中戦争が始まった37年から中止されていた。36年生まれの平井さんにとってはこれが記憶にある最初のねぶた。「ねぶたってこんなものか」と感じた。
運行を認めたのは当時の宇都宮孝平知事だ。戦後、宇都宮氏は「青森県議会史」への寄稿「青森の思い出」で「ねぶたどころではないとの考えもあったが、県民として心機一転したいとの願望によるものと判断し、復活を認めた」と記した。
写真を保存する市民団体「奏海の会」の相馬信吉会長(74)は「県民がずっと我慢の生活をする中で、運行には戦意高揚の狙いがあったのだろう。物資不足の中で、弘前ねぷたの材料も流用していたようだ。市民が戦時中でもねぶたを愛していたのが伝わってくる」と読み解く。
空襲、戦後…
戦争末期の45年7月28日、写真に写る市中心部は、米軍の青森空襲でほぼ全て焼失し、市民ら1000人以上が死亡した。
平井さんは、疎開先の郊外から市中心部の自宅に戻った当日に空襲を体験した。「(米爆撃機)B29の編隊のゴォーッという爆音、花火のように光って落ちてくる焼夷弾の輝きが印象的だった」。自身は田んぼの方向に逃げて助かり家族も無事だったが、自宅は焼夷弾が直撃して全焼した。
ねぶたは終戦翌年の46年に復活する。復興する街と合わせるかのように、ねぶたも明るくきれいになっていった。「青森空襲があったことを知っている人も少なくなってきた。いつまでもねぶたを楽しく見られる平和な時代であってほしい」。平井さんはそう願っている。



