太平洋戦争末期の沖縄戦で亡くなった2人の少年飛行兵をまつる墓碑が、奥出雲町下横田の丘陵地にひっそりとたたずむ。仁多郡横田町(現・奥出雲町)出身の新田祐夫さんと、横浜市出身の宇佐美輝夫さん。2人は特攻隊員として、沖縄・慶良間泊地の敵艦船に突入して散華したとされる。戦後81年。祐夫さんの遺族が読売新聞の取材に対し、同じ墓石に名前が刻まれた2人の秘話を語った。
出撃秘話、くじ引きで決まった搭乗
1945年7月1日。福岡に司令部を置く陸軍第6航空軍最後の特攻隊員として、2人がそれぞれ乗り込んだ特攻機は、宮崎県の特攻基地「都城東飛行場」から沖縄へ飛び立った。祐夫さんの甥(おい)、新田昭夫さん(73)は、出撃前に撮影したとみられる2人の写真を額縁に入れ、奥出雲町の自宅で大事に保管している。「心に従い、2人でともにこの道を行こう――。そんな声が聞こえてきそうです」と語る。
昭夫さんは、母親から聞いた話が耳を離れない。「今、自分が生きているのは祐夫さんのおかげです」――。戦後、奥出雲町を訪れた元特攻隊員は涙ながらに、そう告げたという。
戦況の悪化で、各基地の特攻機は日々減り、7月1日に都城東飛行場から出撃できたのは4機のみ。母親が元特攻隊員から聞いた話によると、特攻機の操縦士はくじ引きで決定。祐夫さんの親友だった宇佐美さんはくじに当たって搭乗が決まり、同様に当たった元特攻隊員は、外れた祐夫さんからの申し出を受け入れ、搭乗を代わったという。
遺書に込められた2人の絆
知覧特攻平和会館(鹿児島県)の学芸員、八巻聡さんは「特攻に志願した飛行兵の中でも特攻隊員になれるのは、一部だけ。戦況が悪くなった今こそ、自分たちの出番、そして個々の役割を果たすことで戦況を変えられるという強い使命感を持って出撃した」と言う。元特攻隊員が祐夫さんの申し出を受け入れた理由について、昭夫さんは「2人の強い絆を知っていたからこそ、断れなかったんじゃないでしょうか」と推し量る。
祐夫さんは遺書にこうつづった。「お父様、いよいよ最後の便りです。お母様、お姉様、いつまでも元気でいてください。今日、小包を遺品として送ります。お守り袋は宇佐美のお母様が下さったものです。永久に交際してください。お父様、お母様、お姉様、では、さようなら。祐夫の生前お世話になった人々によろしく」
宇佐美さんは祐夫さんを兄のように思っていたらしい。遺筆に「輝夫も兄祐夫と共に至極壮健出戦の日近く最後の猛訓練に全力をふるっています」と書き、「いよいよ一人前の戦闘操縦者としてお役に立つ時がきたのです。短いようで長い十九年間でした。日本一のお母様、いつまでも元気でいてください。輝夫はいきます。永久にさようなら」と結んだ。
「同じ墓で」の遺言、今も続く祈り
祐夫さんは「輝夫と同じ墓で眠らせてほしい」と遺言したという。祐夫さんの兄にあたる昭夫さんの父親がその思いをおもんぱかり、墓碑を建てた。「遺族として誇りに思うのは、2人が交わしたであろう約束を最後まで貫いたこと。どんな言葉で心を通わせ、どんな思いで敵艦に向かったのか」。2人が眠る墓に手を合わせる昭夫さんの目に涙がにじんだ。



