戦後80年、祖父が残したBC級戦犯裁判の記録
戦後80年となる2025年7月、本紙がフィリピンでのBC級戦犯裁判に関する連載「兵士が負った罪」を掲載した翌月、担当記者のもとに1通の手紙と冊子が届いた。差出人は愛知県豊橋市在住の岩瀬嘉之さん(78)。手紙には「祖父はインドネシアで戦犯裁判の弁護士をしていました」と記されていた。
3冊のノートに刻まれた戦火の記憶
同封されていたのは、嘉之さんが祖父・良尾さんの手記をパソコンでまとめた150ページに及ぶ冊子だった。良尾さんは1946年8月からインドネシアで始まった旧日本兵に対するBC級戦争犯罪人裁判の弁護人を務め、裁判の様子や死刑執行を克明に記録したノートを残していた。
「(ある日本人の軍曹長は)死刑宣告をしっかりした態度で聞き、顔色一つ変えなかった」「かなり虐待行為があったようで(現地の)被害者が有力な証言をしている。(裁判での)防御の方法は乏しい」
ノートにはこうした法廷での証言や、祖国から遠く離れた地で処刑された旧日本兵の最期がびっしりと書き込まれていた。嘉之さんは2004年夏、実家の物置小屋を整理中に、緑色とオレンジ色の表紙に良尾さんの名前が記された2冊のノートを柳ごうりの中から発見したという。
弁護人を志した理由を探る旅
良尾さんが57歳で病死した1951年、嘉之さんはわずか3歳だったため、直接の記憶はほとんどない。「祖父が見た光景を子どもや孫たちにも伝えなければ」という思いから、保険の仕事の合間を縫って2010年頃から手記の入力作業を開始。文章を整える作業に15年を費やし、昨年ようやく冊子としてまとめ上げた。
しかし嘉之さんには、ノートを見つけたときから疑問が残っていた。「祖父はなぜ戦犯を弁護しようと海を渡ったのか」
記者は8月下旬、豊橋市内の喫茶店で嘉之さんと会い、1時間半にわたって話を聞いた。良尾さんは1893年、農家の次男として豊橋市に生まれ、東京の漆器店での仕事を経て旧国鉄に勤務。夜間の日本大学法律科で司法を学び弁護士試験に合格、終戦直後の1945年9月に弁護士登録した。
厚生省(現厚生労働省)が募集した戦犯弁護人に応募して採用され、53歳だった1947年2月、船でインドネシアへ渡航。当初はフィリピン行きの予定だったが、途中でインドネシアのアンボン島に変更された。
インドネシアでの戦犯裁判の実態
記者が日本政府や研究者の資料を調査した結果、インドネシアでは1946年8月から1949年12月にかけて、オランダが12カ所で法廷を開き、旧日本軍の1038人を戦犯として裁いていたことが判明した。
捕虜への暴行致死や虐殺などの罪に問われ、236人が死刑判決を受けた一方、無罪はわずか55人。350年にわたってインドネシアを植民地支配してきたオランダによるこの裁判は、起訴数と死刑判決数が他国で行われた戦犯裁判よりも多く、旧日本兵に対して特に厳しい内容だったとされる。
「インドネシアでいったい何があったんでしょうか」と記者の説明に驚く嘉之さん。2人はBC級戦犯に詳しい識者を東京に訪ねることを決意した。
BC級戦犯裁判の歴史的背景
BC級戦犯とは、1945年の終戦後、日本の戦争犯罪人を分類したもので、「平和に対する罪」のA級、虐待や虐殺など「通例の戦争犯罪」のB級、人種的な迫害など「人道に対する罪」のC級に分けられた。
米国、英国、オランダなど9カ国はアジア・太平洋地域の50カ所以上でBC級戦犯に対する裁判を開いた。被告となった旧日本兵らのための弁護団の派遣は当初、連合国に許されず、武装解除された抑留中の法律知識がある旧日本軍関係者が臨時に弁護していたとみられる。
1946年以降、日本や米国などから弁護士や通訳らが各地に派遣されたが、証人の確保や証拠集めは難航したとされている。岩瀬良尾さんはそうした困難な状況の中、弁護人としての使命を果たそうとした一人だった。
3冊のノートは、単なる個人の記録を超え、戦後処理の複雑な実相と、そこに携わった人々の葛藤を現代に伝える貴重な歴史資料として、今後さらに検証が進められることになるだろう。



