4歳で目の前で父を失った川崎大空襲 元教員が問い続ける「なぜ戦争を」
「父ちゃん、死んじゃだめだ。起きて、起きて、起きて…」。1945年4月15日の夜、川崎大空襲の最中、たった4歳だった山田恵照さん(現在85歳、東京都日野市在住)は、血まみれになった父に泣き叫びながらしがみついた。目の前で肉親を失ったあの日から81年が経過した今、山田さんは初めてメディアの取材に応じ、戦争の悲惨さと平和の尊さを訴えている。
都町ロータリーでの惨劇
山田さんは現在の東京都神津島村で生まれ、川崎大空襲の日には、父の信次郎さん(当時40歳)の滋賀県実家へ疎開する途中で、家族6人で川崎市幸区の知人宅に滞在していた。夜間、空襲警報が鳴り響く中、親に起こされた山田さん一家は、火の手に追われながら土地勘のない川崎を逃げ回り、広場のように開けた都町ロータリー(円形交差点)にたどり着いた。
多数の住民が避難していたその場所を、米軍のさらなる攻撃が襲った。山田さんは毛布を頭からかぶって伏せていたが、手をつないでいた父信次郎さんは周囲を確かめようと起き上がり、心臓を撃ち抜かれてしまった。「ダーっとすごい量の血が出て『うーん』とうなったのが最期だった」と、山田さんは当時の光景を鮮明に語る。
家族の負傷と戦後の苦悩
「都町ロータリーの惨劇」では、信次郎さんが即死し、母のなをさんと次兄の隆也さん(現在90歳、堺市在住)が脚を負傷した。長兄の勝久さん(現在93歳、東京都小金井市在住)がなをさんと妹を背負い、5人で約700メートル先の矢向駅まで逃れた。隆也さんは看護師4人に組み伏せられ、麻酔なしで手術を受け、今も左足に破片が残っている。
戦争が終わった8月15日から4カ月後、小学5年生になった山田さんは母になをさんに「なんで戦争したんだ。誰も反対する人はいなかったのか」と尋ねた。母は「おまえも大きくなったら分かる」とだけ答え、1971年に63歳で亡くなるまで、その答えを聞くことはなかった。
歴史の授業で見えた真実
高校生になって、山田さんは戦争の理由が見えてきた。歴史の授業で、小説家の小林多喜二のように命を張って戦争に反対した人々が弾圧された歴史を知ったからだ。「言論弾圧に対抗するには勉強して、賢くならなきゃだめだ」と感じ、働きながら法政大学の夜間部を卒業し、障害のある子どもたちの教育に携わった。
「なぜ、父は殺されなければならなかったのか。戦争そのものが憎い」と今も語る山田さん。米国のイラン攻撃やイスラエルのガザ攻撃、ロシアのウクライナ侵攻などの報道に触れ、「今の日本や世界は戦争に向かっているようで、危うくてしょうがない」と危惧する。「こんなんじゃ、孫世代に安心してバトンを託せない。死んでも死にきれないよ」と、平和への切実な願いを込めて訴える。
川崎大空襲の概要
川崎大空襲(川崎・東京南部空襲)は、1945年4月15日午後10時ごろ、米軍のB29爆撃機約300機が来襲した。現在の川崎市川崎区、横浜市鶴見区、東京都大田区に3カ所の爆撃目標を設定し、焼夷弾や爆弾約2万4000発、約1900トンを投下した。川崎市の空襲約20回の死者約1000人、負傷者約1万5000人の大半はこの日の被害とみられており、東京都でも蒲田周辺などで800人以上が犠牲となった。
長兄の勝久さんは、父の写真を前に「かぶっていた防空頭巾の中から爆弾の破片が出てきてぞっとした。あれがなければ即死ですよ」と語り、家族の記憶が今も生々しく残っていることを示している。



