東京大空襲の記憶を胸に旅立った父 膵臓がん闘病中に書き上げた「生き延びた者の願い」
1945年3月10日の東京大空襲から81年が経過した。あの一夜で10万人以上が犠牲となった惨劇を生き延びた男性が昨年、初めて自身の体験を手記にまとめた。しかし、その内容を公表することなく3カ月後に病でこの世を去り、貴重な記憶と平和への切実な願いは娘によって語り継がれている。
家族に伝えなければ永遠に失われる記憶
手記を遺したのは、東京・浅草に住んでいた元会社員の桜井栄治さん(享年89)。幼少期に一家で東京大空襲に遭遇しながらも、長年にわたり人前でその体験を語ることはなかった。
長女でダンス講師の初美さん(61)は「父は明るい人柄でしたが、戦争のことだけは思い出したがらなかったようです。空襲体験のトラウマが深く残っていたのでしょう」と振り返る。
転機が訪れたのは昨年7月。栄治さんに膵臓がんが発見され、余命を意識するようになった。そんな中、高校の社会科教師を務める孫娘(25)から空襲体験について尋ねられたことがきっかけで、「いま家族に伝えなければ、この記憶は永遠に失われてしまう」と決意し、筆を執ったのである。
奇跡が重なり辛うじて生き延びた一夜
34ページに及ぶ手記には、戦時下の浅草での家族生活と疎開先での日々が詳細に記されている。特に1945年3月10日未明の大空襲については「幾つかの奇跡が重なり、辛うじて生き延びた」と綴られている。
空襲警報のサイレンが鳴ると、当時小学生だった栄治さんは職人の父、妊婦の母、幼い弟3人とともに6人で防空壕に避難した。遠くに火の手が上がる中、隣組の組長から「妊産婦と幼児もいるんだから」と早期避難を勧められた。
栄治さんの父は直感的に、西側の上野方面ではなく東側の言問橋へ向かうことを選択。隅田川にかかる橋は猛烈な熱風が吹き付けていたが、はいながら何とか渡り切った。偶然目にした近くの言問小学校に逃げ込み、その一角だけが焼け残っていたことで命を救われたのである。
「慰霊祭で体験談を伝えたかった」という心残り
翌11日、言問橋を渡って自宅に戻った栄治さんが見たのは、路上に散乱する焼死体と川に浮かぶ多くの遺体だった。自宅周辺は焼き尽くされ、近隣住民の消息はまったく分からなかった。
手記の中で栄治さんは「西の上野方面に逃げた大勢は途中で焼死し、遅れて言問橋を渡ろうとした人たちは激しい熱風で川に飛び込み亡くなった。わずかな差が生死を分けた」と記している。
執筆から約3カ月後の昨年10月、栄治さんは静かに息を引き取った。病床では初美さんに「空襲の慰霊祭で体験談を伝えたかった」と心残りを語っていたという。
若い世代への警鐘「いつか巻き込まれるかも」
栄治さんは手記に、現代の若い世代へのメッセージも遺している。ウクライナやパレスチナでの戦争に触れ「いつか私たちも巻き込まれるかもしれない」と警鐘を鳴らし、次のように呼びかけている。
「国家間も日常生活も同じ。事態を悪化させないためには、相手の立場を考え、双方が納得できるよう交渉するのが唯一の最善策です」
初美さんは「過酷な体験を生き抜いた父や家族をつくづく尊敬しました。父の記憶を引き継ぎ、若い世代に伝えていきたい」と語る。手記は今後、公共機関や民間団体に寄贈される予定だ。
東京大空襲から81年。一人の男性が病と闘いながら遺した「生き延びた者の願い」は、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて問いかけ、記憶の継承の重要性を訴え続けている。



