小学校の倉庫解体で戦時中の防空壕遺構が発見される
東京都北区の区立滝野川小学校で、老朽化した倉庫を解体した際に、太平洋戦争中に使用されたとみられる防空壕の入り口が発見された。この遺構は「戦争の記憶をとどめる貴重な歴史的資料」として注目を集めており、学校では平和教育の教材として活用が始まっている。しかし、保存や整備には国有地の問題など課題も多く、今後の対応が注目される。
正門脇の倉庫解体で縦横約2.5メートルの穴が出現
滝野川小学校では昨年2月、正門脇にあった老朽化した倉庫を解体していたところ、縦横約2.5メートルの穴が姿を現した。穴の入り口は赤レンガで囲われており、内部はレンガで塞がれているため、奥行きがどれだけあるかは現在も不明だ。近所の住民からも「あれは何ですか」と質問されることが多く、地域の関心を集めている。
戦時中の記録と一致、防空壕の可能性が高い
北区立中央図書館の地域資料専門員である保垣孝幸さん(57)が調査を行った結果、この穴の由来が明らかになった。学校に残されていた記録を調べると、本土空襲が本格化した1944年11月に、滝野川警防団(消防団の前身)の分団長名で滝野川区(現在の北区)の区長に宛てた「防空壕開鑿許可願」が発見された。この文書には、滝野川国民学校正門の近くに学校と警防団用の防空壕を掘るとの内容が記されていた。
さらに、同校の校内日誌には1944年12月1日に「防空壕設定」、同4日には「地下防空壕ヲ整備、電灯ヲツケ五時迄作業」との記載も確認された。保垣さんは「戦時中に作られた防空壕の可能性が非常に高い」と指摘し、「戦後間もない頃は地域住民にも存在が知られていたが、倉庫に隠れた長い年月の間に詳細な経緯が分からなくなってしまったのだろう」と推察している。
1890年創立の歴史ある学校、戦時中の空襲を免れる
滝野川小学校は1890年(明治23年)に創立された歴史ある学校で、戦時中は滝野川国民学校と呼ばれていた。1944年には児童の集団疎開が行われ、1945年4月13日に300機以上の米爆撃機B29が都内北部を襲った「城北大空襲」では区内も大きな被害を受けたが、同校やその周辺は焼失を免れた経緯がある。今回発見された防空壕は、そうした戦時下の緊迫した状況を物語る貴重な証拠となっている。
平和教育の教材として授業に初めて導入
同校では今年1月末、この防空壕を初めて授業に取り入れた。6年2組の田中希教諭(53)が太平洋戦争中の空襲を学ぶ社会科の授業で、同校に残っていた防空訓練の写真を紹介した後、児童を連れて入り口まで案内した。児童からは「どうして入り口が塞がれているの?」と質問され、「戦争中は中に入れたけど、戦後に塞がれたのだと思う」と説明したという。
授業後、児童からは「戦争の痕跡が身近なところにあったと知って、リアルに感じた」といった感想が寄せられた。田中教諭は「今の子どもたちは祖父母らから直接、戦争の話を聞いていない世代。実物を見ることで、戦争が現実にあったことが子どもたちの心により深く伝わったのではないか」と教育上の意義を語った。
保存整備には課題、国有地の問題が壁に
しかし、防空壕の保存や整備には多くの課題が残されている。北区学校改築施設管理課によると、倉庫のあった場所は国有地であり、整備する場合は国から土地を有償で借り受ける必要がある。同課の担当者は「区内で文化財になっている防空壕はなく、予算を付けて整備する予定はない」と説明しており、現状では実現の見通しが立っていない。
同校の市川由紀絵校長(61)は、「近所の人たちから『案内板をつけてほしい』とよく言われる」とした上で、「大切な歴史の教材として今後も活用していきたい」と話している。地域からの要望も高いが、財政面や土地所有権の問題が解決の障壁となっている。
戦後81年、戦争の記憶を次世代に伝える試み
戦後81年が経過し、戦争体験の風化が進む中で、この防空壕遺構の発見は戦争の記憶を次世代に伝える重要な機会となった。学校では今後も平和教育の一環として活用を続けていく方針だが、保存整備のための具体的な計画はまだない。歴史的価値と現実的な課題の狭間で、この遺構がどのように扱われていくかが注目される。



