江戸時代の隠れた抜け道「根府川往還」、地元でも忘れられた歴史の道を再発見
根府川往還、地元でも忘れられた歴史の道を再発見

江戸時代の隠れた抜け道「根府川往還」、地元でも忘れられた歴史の道を再発見

江戸時代、東海道の難所である箱根を越える際、幕府は「入鉄砲に出女」を監視する関所を箱根に設置しました。この関所は、将軍の居城である江戸城を守る重要な役割を果たし、庶民も旅行する際には通行手形が必要とされました。しかし、厳重な関所を避けようとする者たちは、抜け道を探し求めたのです。その中で、箱根越えの抜け道として知られたのが「根府川往還」と、小田原市根府川に設けられた根府川関所でした。

脇往還としての根府川往還の位置づけ

江戸時代の街道は、東海道や中山道のような主要な道を「街道」と呼び、それらに通じる道を「脇往還」と区別していました。伊豆地域では、一般的に「下田街道」として知られる道が、正式には三島から下田へ至る「下田往還」であり、その一部が「根府川往還」として機能していました。残念ながら、現代では函南町の住民でさえ、この道の存在に詳しくない状況が続いています。

江戸時代に描かれた函南町内の村絵図には、「根府川往還」や「熱海道」との記載が見られ、当時は重要な道として認識されていました。この道は、三島から田方郡の大場、平井、軽井沢を経て熱海峠を越え、伊豆山から門川(千歳川)を渡り、相模国の土肥門川村に入り、根府川関所を経て小田原城下に合流するルートでした。

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歴史的な利用と記録

「増訂豆州志稿」によれば、三島から門川までの距離は約32キロと記されています。この道は、東海道の間道として、諸大名や旗本ら武士が熱海への湯治に利用することが多かったと考えられています。実際、韮山代官の手代が湯治に出かけた記録も残されており、当時の利用状況を窺い知ることができます。

天正8年(1580年)には、北条氏が韮山で醸造した江川酒の明樽を届けるため、相模小田原から韮山まで伝馬を命じ、軽井沢などの村に役銭を与えたことが文書に記されています。また、同10年には、小田原から伊豆国子浦までの運送に伝馬が使用され、伝馬賃が免除された事例も見られます。

平井村の梶尾家文書からは、軽井沢村が熱海村まで、平井村が軽井沢と三島間の継ぎ立てを行っていたことが明らかです。さらに、万延元年(1860年)には、イギリス公使のオールコックが富士登山の帰りにこの道を通り、その様子が『大君の都』に記録されました。江戸時代には「根府川往還分間延絵図」も出版され、主要な往還の一つとして位置づけられていたのです。

明治期の鉄道計画と現代への影響

明治22年に東海道線が開通すると、函南町上沢から選出された国会議員の田中鳥雄は、根府川往還をなぞるように小田原から三島市大場までの鉄道敷設を請願しました。しかし、この計画は実現せず、往還は次第に忘れ去られる道となっていきました。今日、地元住民にもなじみの薄いこの歴史的な道は、伊豆学の研究を通じて再発見が進められています。

根府川往還は、江戸時代の交通網や社会情勢を理解する上で貴重な遺産であり、その歴史的価値を見直す機会が求められています。地元の関心を高め、保存活動を促進することが、未来への遺産継承につながるでしょう。

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