第一次大戦中、習志野収容所のドイツ人捕虜の足跡をひ孫が調査 文化交流の歴史を伝える
習志野収容所のドイツ人捕虜の足跡をひ孫が調査

第一次大戦中、習志野収容所のドイツ人捕虜の足跡をひ孫が調査 文化交流の歴史を伝える

第一次世界大戦中、敵国だったドイツ人捕虜を収容する施設が、現在の千葉県習志野市に存在した。その「習志野俘虜収容所」に収容された曽祖父の足跡をたどるドイツ人男性がいる。昨年来日して習志野市を訪れ、戦争の最中に生まれた交流の歴史を伝えようとしている。

曽祖父の手紙から始まる調査

「親愛なるみんなへ。こちらは元気に過ごしています。次に会えるのはいつになることだろう。愛を込めて、ヨーゼフより」——これは1915年、習志野俘虜収容所からドイツへ送られたはがきの一節だ。送り主はヨーゼフ・エリッヒさん(1982年死去、享年90歳)で、当時ドイツが統治していた中国・青島で旧日本軍の捕虜となり、同収容所で4年半を過ごしたドイツ兵である。

ジャーナリストで、ひ孫にあたるトービアスさん(44歳)は約10年前、父から曽祖父が「兵士として中国にいた」と初めて聞き、捕虜として日本で過ごした事実を知った。物心がつく頃には亡くなっていた曽祖父に興味が湧き、ドイツ人捕虜に関する書籍や資料を読みあさり、大学の研究者と連絡を取るなどして足跡をたどり始めた。

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曽祖父が習志野から家族や友人に送ったはがきの存在を知ったのはその2年後だ。手紙には「なかなか便りを書けずにごめん。毎月手紙1通、はがき1枚しか送れないんだ」「送ってくれたお金を受け取れたよ。収容所生活のつらさが和らいだ」といった内容が記され、収容所の日常や感謝、異国でのさみしさがつづられていた。トービアスさんは「曽祖父が日本で思いを記したはがきが今も残っている。奇跡だと感じた」と語り、調査にいっそう熱が入ったという。

習志野での追体験と感動

昨年、トービアスさんは2度にわたって習志野を訪れた。かつて収容所があった公園や、帰国することなく亡くなった兵士が眠る墓などに足を運び、初めて訪れた9月は、ヨーゼフさんが収容所に移送された月でもあった。「同じような暑さを感じ、同じ木や鳥を見たはず。曽祖父が感じたことを追体験できた」と振り返る。

日本で当時の資料を調査し、専門家に話を聞く中で、ヨーゼフさんが収容所内の合唱団に所属したことも判明。昨年11月には習志野の歴史をたどるコンサートに招かれ、当時ヨーゼフさんが合唱した歌を自ら歌う機会を得た。「文献を読むだけでなく、曽祖父が過ごした土地で、彼と同じことを体験できた」と感動を語った。

トービアスさんは「日本人が100年以上の時を経て、今でもドイツ兵がいた歴史や記憶を語り継いでいることに胸を打たれた」と述べ、「彼が収容所で何を思いながら、どのように日常を過ごしたか、今以上に細かく知りたくなった」と話している。曽祖父は第一次大戦終結後に帰国し、第二次大戦にも従軍したが、トービアスさんは将来的に、曽祖父の足跡をまとめ記事として発表することを考えている。

捕虜収容所での文化交流と友好の歴史

「ドイツと日本は敵国だったが、ドイツ人捕虜は収容所で丁重に扱われ、文化的交流が生まれた。交流が戦争の憎しみに勝った歴史があったことを伝えたい」とトービアスさんは強調する。日英同盟を結んでいた日本は第一次大戦に連合国側で参戦し、捕虜となった約4700人のドイツ軍将兵を収容するための施設が全国各地に設けられた。

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捕虜たちは地域住民と交流し、収容所では文化活動も盛んに行われた。例えば、板東俘虜収容所(徳島県)では捕虜がベートーベンの「第九」を日本で初めて演奏した。習志野俘虜収容所には多い時で、ドイツ人捕虜ら約1000人が収容され、オーケストラを結成し、サッカーやテニスを楽しみ、遠足も行われた。日本にソーセージの製造法を伝えたのも、習志野にいた捕虜とされる。

同収容所の歴史を研究する星昌幸さん(66歳)は「当時の日本は『一等国』の仲間入りをしたいという意識が強く、国際法を守って捕虜は丁重に扱われた」と指摘。「その後も日本に残って活動し、両国の友好に貢献する人もいた。そんな歴史を次世代に伝えたい」と語っている。