横浜と軍隊の120年をたどる展覧会 幕末から昭和後期の貴重な資料230点超を公開
横浜と軍隊の120年展覧会 幕末から昭和後期の資料230点超

横浜と軍隊の120年をたどる展覧会が開催中

横浜市中区の横浜都市発展記念館において、「戦争の記憶 横浜と軍隊の120年」をテーマとした特別展覧会が現在開催されています。この展示会は、幕末の黒船来航から昭和後期のベトナム戦争終結に至るまでの約120年間にわたる、横浜と軍隊の複雑な関係を掘り下げるものです。

230点を超える貴重な資料が一堂に

会場には、幕臣・勝海舟が設計した神奈川台場(砲台)の絵図や、航空技術廠支廠の施設図など、歴史的に貴重な資料が230点以上展示されています。日露戦争の戦勝を記念して作られた砲弾狛犬や忠魂碑、慰霊碑の写真も並び、戦争の記憶が地域にどのように刻まれてきたかを具体的に示しています。

横浜の軍事史の変遷を詳細に解説

横浜の軍事史は、1853年のペリーの浦賀来航と翌年の日米和親条約締結に始まります。開港後は生麦事件を契機に英仏軍が駐留し、外国軍艦の窓口としての役割を果たしました。西南戦争では、鉄道で集結した兵力を港から九州の戦地へ送り出す重要な拠点となりました。

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大正時代には、第1次世界大戦で登場した英国の戦車やドイツの潜水艦、英仏の最新鋭航空機が横浜港から持ち込まれ、日本の軍事技術の発展に大きく貢献しました。しかし、1884年に海軍の東海鎮守府が横須賀へ移転したことで、横浜は「軍都・東京」と「軍港・横須賀」に挟まれた軍事的な空白地帯へと変貌していきます。

関東大震災と軍隊誘致運動

1923年の関東大震災では救援が遅れたことを受け、軍隊誘致運動が活発化しました。これにより、現在の保土ケ谷区に「横浜警備隊」が駐屯しますが、短期間で撤収される結果となりました。昭和時代に入り、満州事変が勃発すると、横浜は再び軍事的な役割を担うことになります。

太平洋戦争中の軍事施設と戦後の変貌

太平洋戦争中には、現在の金沢区に横浜海軍航空隊や海軍航空技術廠支廠が設置され、港北区の慶応大学日吉キャンパスの地下壕には連合艦隊司令部が移転しました。青葉区の「こどもの国」敷地には陸軍の田奈弾薬庫が、国学院大学たまプラーザキャンパスの運動場には射撃演習場が設けられていました。

米軍機を迎撃する高射砲隊陣地も野毛山など市内12カ所に配置され、戸塚区の舞岡熊之堂遺跡からは、夜間に米軍機をサーチライトで照らす照空隊の陣地跡が発掘されています。1945年の敗戦後は米軍が駐留し、市街地にカマボコ兵舎が建設されるなど、街並みは大きく変貌しました。

ベトナム戦争と「戦車闘争」

神奈川区の横浜ノース・ドックはベトナム戦争の後方支援基地として利用され、1972年には戦地への戦車輸送を阻止しようとする市民による「戦車闘争」が発生しました。会場には、この「戦車闘争」を解説するコーナーも設けられ、市街地を行進する米軍車両の写真パネルなどが展示されています。

地域に残る戦争の記憶を見つめて

同館の吉田律人主任調査研究員は、「戦後80年が過ぎ、体験者の話を直接聞く機会が減っていますが、身近な神社や寺院、公園には戦争の記憶を刻む石碑などが数多く残っています。これらの遺構は、地域の歴史を理解するための貴重な手がかりとなります」と語っています。

この展覧会は、単なる歴史資料の展示に留まらず、現代に生きる私たちが戦争の記憶とどう向き合うべきかを考える機会を提供しています。会期は4月12日までとなっており、多くの来場者が訪れています。

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