102歳男性が語る終戦直後の中国での体験 捕虜生活で命を救った「劉さん」の思い
日中関係が悪化の一途をたどろうとも、揺るがない思いがある。神奈川県藤沢市に住む尾﨑正夫さん(102)は第2次世界大戦中、中国で現地の人々に命を救われた貴重な経験を持つ。1世紀を生き抜いた今、平和の尊さをかみしめながら、その記憶を次世代に伝え続けている。
きょうだいの絆と戦時中の別離
千葉県船橋市の介護老人保健施設「大穴さくら苑」では、尾﨑正夫さんが妹の奥田ミネ子さん(100)を訪ねる姿が見られる。「お兄ちゃんが来たよ」とほほ笑みかける正夫さんに、認知症が進むミネ子さんは「こんなにすてきな人が私のお兄ちゃんなの?」と尋ね、兄の手を握り締めた。戦時中、離ればなれになったきょうだいの絆は、今も確かめ合うように続いている。
正夫さんは1941年、17歳で入社した会社の転勤により中国の天津に渡った。1944年に故郷の山口県に戻り陸軍第42連隊に入隊、再び中国へと赴いた。終戦は南京陸軍経理学校で迎え、その後およそ半年間にわたる捕虜生活を中国で送ることになる。
捕虜収容所での危機と「劉さん」の登場
終戦直後の1945年8月下旬、捕虜収容所での生活が始まった。収容所はむしろなどで作られた掘っ立て小屋で、地面にビニールを敷き毛布をかぶって寝る過酷な環境だった。ある日、同じ捕虜の元日本兵3人と共にむしろの材料などの買い出しに出かけた際、十数人の中国人に囲まれるという危機に直面した。
手にはこん棒や鎌を持った彼らに囲まれ、正夫さんは死を覚悟した。「前日の買い出しで、値段が高いと断った相手の仲間だった。メンツをつぶされた怒りと日本軍に対する殺意だったと思う」と振り返る。
その時、「劉さん」という名の年老いた村長が仲裁に入った。正夫さんらを背に両手を広げ「待て!殺してはならん!」と声を張り上げ、暴徒を追い払ったのである。劉さんはその後、正夫さんらを自宅に招いてお茶と果物をごちそうし、無事に収容所に帰してくれた。別れ際には「元気に日本に帰ってください、さようなら」と手を握られたという。
中国での交流と軍隊生活
軍隊に入る前、天津での勤務では経理担当として中国人同僚たちと働いた。同僚の結婚式に出席したり、マージャンを教わったりと交流を深め、入隊のため日本に帰る時には「兵隊にならないで」と同僚の中国人女性から言われた経験を持つ。
「当時、中国に敵対感情を持ったことはない」と語る正夫さんは、「鉄砲を撃つのは自分に向かない」と考え、軍隊では経理を希望。南京陸軍経理学校に入校した。
戦後の人生と「劉さん」への思い
終戦後の1946年3月、正夫さんは故郷の山口県に帰還した。船から日本の本土が見えた時、「生きて帰れる」と実感したという。実家には母のタカさんと妹のミネ子さんが待っており、音信不通だった正夫さんの突然の帰還に「ぶったまげていた。一家をあげて喜んだ」と回想する。
戦後、正夫さんは北京や西安など何度も中国を訪れ、90代でも一人旅を続けた。あの時の「劉さん」の行動に報いたいという思いが、その背景にあった。
平和へのメッセージと若い世代への呼びかけ
正夫さんは70代になり、亡き妻が信仰していたキリスト教に入信。昨年10月には所属する世田谷区の教会で中国での体験を講演し、中学生に自身の戦争体験を伝える活動も行ってきた。
「語学を学び、国際感覚を磨いてほしい。それが世界平和につながる」と、正夫さんは若い世代に強く呼びかける。102年の人生で得た「人の性(さが)は善だ」という確信が、その言葉の根底にある。
