大阪松竹座が5月に閉館、100年の歴史に幕 歌舞伎俳優や歌劇団員が思い語る
大阪松竹座が5月閉館、100年の歴史に幕 関係者が思い語る

大阪松竹座が5月に閉館、100年の歴史に幕

大阪・道頓堀で100年にわたり、上方の芝居文化を支え続けた劇場、大阪松竹座(大阪市中央区)が5月に閉館する。1923年の開館以来、歌舞伎、歌劇、現代劇、落語など、数多くの公演を通じて舞台芸術の醍醐味を届けてきた。劇場を愛し、上方の芸能の魅力を発信してきたゆかりの舞台人たちが、閉館を前に思いを語った。

歌舞伎俳優・片岡愛之助:命懸けの舞台で責任を学ぶ

歌舞伎俳優の片岡愛之助は、大阪松竹座での公演を通じて責任というものを知ったと語る。2000年代の「浪花花形歌舞伎」では、若手世代を育てる公演として芯となる役を経験し、「成功とは何か」を考えるきっかけとなった。多くの観客に喜んでもらえることが成功だと気付いたという。

松竹座最後の公演となる「御名残五月大歌舞伎」(5月2~26日)では、昼の部で「義賢最期」を演じる。義賢の役は、叔父の片岡仁左衛門から手取り足取り教わった大切な役で、2006年の松竹座で初めて演じて以来、思い入れが深い演目だ。平家の時代に源氏の再興を願って戦い、死んでいく義賢を演じる中で、戸板倒しなどの立ち回りが際立つ芝居は、やりきるだけで大変なものだという。

特に最後の「仏倒れ」では、絶命した義賢が階段に向かって勢いよく倒れる場面があり、危険を伴う。過去には顔を階段にぶつけて口の中が血だらけになり、激しい痛みを感じた経験もある。2024年には別の演目の稽古中にセットが顔に当たり、鼻などを骨折する怪我を負ったが、今もプレートが入っている状態だ。

家族からは「義賢はもうやめてね」と言われたが、松竹座最後の舞台はゆかりのある演目にしたかったと語る。事前に相談せずに決断したという。松竹座はホームグラウンドであり、大切な場所であるこの地で一区切りとなる。観客には出演者の姿を心に刻んでほしいと願っている。

閉館後も上方歌舞伎がなくなるわけではないと強調する。一般家庭から歌舞伎の世界に入り、十三代目仁左衛門や片岡秀太郎という師匠の背中を見て育った。1960年代、衰退する上方歌舞伎に対し、十三代目らが私財をなげうつ覚悟で公演を開き、灯を絶やさないよう必死だった。微力でも上方歌舞伎の力になりたいと語り、ここからが正念場だと述べた。

OSK日本歌劇団・桐生麻耶:教わったことを次世代に引き継ぐ

OSK日本歌劇団の桐生麻耶は、大阪松竹座が自分を作ってくれた場所だと語る。舞台に立つ人として必要なことを、喜びも悔しさもここで教わったと振り返る。松竹座がなかったら今の自分はいないと強調した。

2004年、OSK日本歌劇団は66年ぶりにレビュー「春のおどり」を松竹座で開催した。当時、運営主体から解散を告げられ、公演場所に途方に暮れていたが、松竹座が手を差し伸べてくれた。OSKの前身は、開館当時から松竹座を彩った松竹楽劇部だ。桐生もその舞台に立ち、トップスタークラスの方々と同じように並ぶ経験をした。中心になっていくなんて考えたこともなかったが、必死で臨んだという。

少ない人数でロビーや舞台裏を駆け回り、出番を間に合わせ、ほとんど全員でラインダンスをした本番は夢中だった。あの舞台に立ったことは大きな気付きを与えてくれたと語る。願う役につけなくても、悔しさを口に出すより、いつか出会う場面に向けて自分を磨くことが大切だと学んだ。

2019年の松竹座「春のおどり」では、トップスターとしてお披露目させてもらった。緊張も喜びもない平常心の状態でステージを務められた感覚は、もう二度と訪れないと思うと述べた。昨年11月には舞台「じゃりン子チエ」で、チエちゃんの飼い猫・小鉄を演じ、これが最後の松竹座公演となった。花道の「すっぽん」(昇降装置)からの景色を味わうことができ、歴代の劇団員の中でも一番多くすっぽんで登場していると思うと語った。

OSKにとって松竹座がホームだなんておこがましくて言えないが、心では大きな意味がある舞台だと思っていると語る。閉館は無常で、まだ実感もなく信じられないという。自分の人生の一部だと思ってきた劇場で、ここで教わったことはしっかり次の世代に引き継ぐことが義務だと述べた。松竹座が再び動き出す時が来るまで、OSKは発揮できる力をキープし、磨き続けていくと語った。