テニスの錦織圭選手(36)=ユニクロ=が1日、今季限りでの現役引退を発表した。勝負強さと試合巧者ぶりで幾度も強豪を打ち破り、日本男子テニスの歴史を切り開いてきた不世出のプレーヤーの歩みを、6つのポイントで振り返る。
①日本では収まりきらなかった才能
松江市で生まれた錦織が初めてテニスラケットを握ったのは5歳の頃。自宅前での壁打ちが原点だった。「覚えているのは自宅前で壁打ちしていたこと。とにかく外で遊びたくて。サッカーは一人でやるのは難しいし、色々なショットを打って、壁と戦うのが楽しかった」と振り返る。コートでの練習は毎週末、父清志さんの指導のもと、4歳上の姉玲奈さんと3人で行うのが習慣だった。
11歳の時、松岡修造さんが立ち上げたトップジュニアキャンプ「修造チャレンジ」に参加。松岡さんは後に「11歳にして、僕以上の発想力を持ち、しかもプレーとして実行できる技術があった」と述懐している。13歳だった2003年、日本テニス協会会長を務めた盛田正明氏が私財を投じて創設したファンドの奨学金を得て、米フロリダ州の名門テニスアカデミーに留学した。「日本を出るしかないと思った。松江では強い練習相手がいない」と錦織。「島根に限らず、日本ではダメだと思った」。ここから、米国を拠点にした活動が本格化する。
②渡米してブレーク、松岡修造を超えて
プロテニスプレーヤーとして脚光を浴びたのは18歳の春。2008年2月、米フロリダ州で開催されたデルレービーチ国際選手権。予選から勝ち上がり、決勝では第1シードのジェームズ・ブレークを逆転で破って優勝を果たした。優勝スピーチでは英語で「優勝したことが信じられない。ジェームズ・ブレークに勝てたなんて。彼はテレビで見るだけの存在だった。人生で最高のトーナメントになった」と語った。日本男子のツアー優勝は1992年4月の韓国オープンを制した松岡修造さん以来、16年ぶり2度目の快挙だった。
しかし、順風満帆に見えた歩みは2009年、右ひじの疲労骨折という試練に直面する。「テニスが出来ないというのは初めての経験だった。もう世界ランキング100位に戻れないんじゃないかと思った時期もある」と錦織。手術による長期離脱を経て復活し、2011年にはそれまでの日本男子の世界ランキング最高位だった松岡修造の46位を抜き、24位まで駆け上がった。2012年は全豪オープンで4大大会初のベスト8進出を果たし、楽天ジャパンオープンで初優勝を飾った。
③世界をうならせたラケットさばき
俊敏さを生かした変幻自在のプレースタイルは、世界のトップ選手をも驚かせた。特に、高速ラリーの中でのウィナーや、相手の意表を突くドロップショットは錦織の代名詞となった。2014年には全米オープンで準優勝を果たし、日本男子として初の4大大会決勝進出を達成。準決勝では当時世界ランキング1位のノバク・ジョコビッチを破る大金星を挙げた。この活躍により、錦織は一躍世界のトップ選手の仲間入りを果たした。
④4大大会で日本勢初の決勝へ
2014年の全米オープン決勝では、マリン・チリッチに敗れたものの、その戦いは日本中に感動を与えた。錦織の快進撃はその後も続き、2015年には全米オープンで再びベスト4入り。2016年には全豪オープンでもベスト8に進出し、安定した強さを見せた。4大大会での通算成績は、ベスト8以上が8回、うちベスト4が3回、準優勝が1回と、日本男子テニス史上に残る偉業を達成した。
⑤強さをみせたオリンピック
錦織はオリンピックでも存在感を示した。2016年リオデジャネイロ大会では男子シングルスで銅メダルを獲得。これは日本テニス界にとって1968年メキシコ大会以来のメダルであり、男子シングルスでは初の快挙だった。準々決勝では後に世界ランキング1位となるアンディ・マリーを破るなど、大舞台での勝負強さを発揮した。2021年東京大会ではベスト8に進出し、地元開催の大会で健闘した。
⑥けがに泣いたキャリア終盤
錦織のキャリアは常にけがとの闘いでもあった。2017年には右手首の手術を受け、長期離脱を余儀なくされた。その後も右ひじや左膝など度重なる故障に悩まされ、ランキングは一時100位以下にまで落ち込んだ。それでも復活を目指してトレーニングを続け、2023年にはツアー復帰を果たしたが、かつてのようなトップ10返り咲きはならなかった。今季限りでの引退表明は、けがとの長い闘いに終止符を打つ決断と言える。
錦織圭の歩みは、日本男子テニスの歴史そのものだ。彼が切り開いた道は、後進の選手たちに大きな希望と目標を与えた。その功績は、今後も語り継がれるだろう。



