南鳥島への核のごみ処分場計画、旧島民の笹本さん「子孫から問われるのが怖い」
南鳥島核のごみ処分場、旧島民の複雑な思い「子孫から問われる怖さ」

南鳥島への核のごみ処分場計画、旧島民の笹本さん「子孫から問われるのが怖い」

高レベル放射性廃棄物、いわゆる「核のごみ」の最終処分場候補地として南鳥島(東京都小笠原村)に白羽の矢が立った。この国策に対し、戦前から小笠原諸島に暮らしてきた「旧島民」と呼ばれる人々は複雑な胸中を抱えている。父島で民宿を営む笹本好幸さん(84)もその一人だ。

笹本さんは苦しい心情をこう明かす。「まるで大荷物を押しつけられたような気持ちです。私の代では直接的な影響はないかもしれませんが、将来的に海に漏れ出ないとは限りません。子どもや孫の世代から『なんで反対してくれなかったの』と言われたら、悔やんでも悔やみきれないのです」。

戦争に翻弄され、ようやく手にした安穏の地

笹本さんのルーツは明治20年代に祖父が八丈島から移り住み、父島近くの弟島に居を構えたことに始まる。太平洋戦争末期、小笠原諸島は本土防衛の最前線となり、1944年には戦況悪化で他の島民とともに本土へ強制疎開を余儀なくされた。当時幼かったため、父島での記憶はほとんど残っていないという。

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戦後は千葉県船橋市や浜松市を転々とし、祖父の故郷である八丈島で小中学校時代を過ごした。陸上の短距離走に打ち込み、本土の高校へ進学。卒業後は横浜市内で釣具店を営むなどしたが、1968年に米国統治下だった小笠原諸島が返還され、父から父島への帰島を誘われたこともあり、1975年に両親や妻子とともに約30年ぶりに故郷に戻った。

当時の父島は何もない空き地も多かったが、笹本さんは「空気はきれいで自然は美しい。ここで頑張ろうと思った」と振り返る。1979年に民宿を開業した当時は宿泊施設も数えるほどしかなかったが、次第に本土からの移住者や観光客が増え、島は活気に満ちていった。

世界自然遺産に選ばれた誇りと新たな国策への懸念

2011年、小笠原諸島が世界自然遺産に選ばれたことは、笹本さんにとって故郷への誇りが頂点に達する瞬間だった。民宿の壁には宿泊客からの感謝の寄せ書きがところ狭しと貼られており、「毎日大変でしたが、リピーターの方もたくさん来てくださって。人とのつながりができたのが何よりうれしかった」と顔をほころばせる。

しかし、戦争に翻弄されながらもようやく手に入れた安穏の地に、突如として「核のごみ」という新たな国策が突きつけられた。南鳥島は父島から約1200キロ離れているが、笹本さんの心は落ち着かない。

「文献調査」申し入れを受け、住民説明会が開催

経済産業省などが南鳥島での文献調査を申し入れたことを受け、原子力発電環境整備機構(NUMO)と小笠原村は21日、村内の母島で住民説明会を開いた。これは14日に父島で開催された説明会に続くもので、当初15日に予定されていたが荒天のため延期となっていた。

NUMOによると、父島での説明会には36人が参加し、経産省やNUMOの職員が最終処分場の計画や文献調査について説明し、参加者からの質問に答えた。南鳥島は父島、母島から約1200キロ離れた国有地で、省庁の駐在職員以外に住民は居住していない。

経産省は今月3日、第1段階となる文献調査を村に申し入れており、これに応じると、北海道の寿都町と神恵内村、佐賀県玄海町に続き全国で4例目の候補地となる。渋谷正昭村長は説明会終了まで自身の見解を明らかにしないとしており、今後の判断が注目されている。

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笹本さんは、戦争による強制疎開を経験し、返還後に故郷の再生を見守ってきた旧島民として、核のごみ処分場計画がもたらす長期的な影響に強い懸念を抱いている。子や孫の世代に対する責任感が、その思いの根底にある。