1578年、織田信長は荒木村重の謀反により深刻な窮地に追い込まれた。しかし、歴史評論家の香原斗志氏によれば、村重配下の有力武将が信長側に寝返ったことで戦況は大きく変わり、その背景にはイエズス会の暗躍があったという。さらに、後にキリシタン大名として知られる高山右近が、本能寺の変後に明智光秀と戦い、羽柴秀吉に貢献した事実も浮かび上がる。
信長にとって荒木村重は敵にできない男だった
天正6年(1578年)10月21日、織田信長のもとに荒木村重の謀反の知らせが届いた。『信長公記』によれば、信長は当初これを信じなかった。その後、明智光秀ら重臣を派遣し、村重に言い分があれば申し出るよう、野心がないなら出仕を続けるよう伝えた。それほど信長は村重を信頼し、敵に回すべきではない重要人物と見なしていた。村重は摂津(現在の大阪市北部・中部)の統治を任されていた要の存在だった。しかし、村重は翻意しなかった。
謀反の一報から4日前の10月17日、村重は大坂本願寺の顕如と盟約を結んでいた。顕如は村重父子に宛てた起請文で、本願寺への忠誠を評価する一方、領地などは毛利氏の庇護下にある将軍足利義昭に従うよう記している。つまり村重は、本願寺、毛利氏、足利義昭による信長包囲網に加わる道を選んだのだ。
これは信長にとって、天下統一が危うくなるほどの難題だった。実際、有岡城(兵庫県伊丹市)に立てこもった村重との攻防は1年に及んだ。しかし、結果的に村重は予想ほどの難敵にはならなかった。その背景には、ある武将の貢献と、その武将へのある団体からの説得があった。
寝返った武将たちとイエズス会の暗躍
村重の配下には、後にキリシタン大名となる高山右近(当時は高山友照)や、中川清秀ら有力武将がいた。彼らはイエズス会の宣教師を通じて信長側と接触し、寝返る決断をした。宣教師たちは、キリスト教の布教を進めるため、信長の保護を得ることを重視していた。そのため、村重の謀反が信長にとって不利になると判断し、右近らを説得して信長側に鞍替えさせたのである。
この寝返りにより、村重の戦力は大きく削がれ、有岡城の包囲は有利に進んだ。右近はその後、信長の信任を得て、摂津の一部を治める大名となった。
本能寺の変後、右近は光秀と戦った
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が倒れると、明智光秀が天下を狙った。しかし、高山右近は光秀と戦うことを選び、秀吉側に加わった。実際、山崎の戦いでは右近が光秀軍と交戦し、秀吉の勝利に貢献した。NHK大河ドラマではチョイ役に過ぎないが、史実では右近の活躍は大きかった。
秀吉は右近の功績を認め、彼に領地を与えた。しかし、後に秀吉がバテレン追放令を出すと、右近は信仰を捨てず、領地を失って追放された。簡単に恩人を追放した天下人の姿は、歴史の皮肉を物語っている。
キリシタン大名の功績とその後の運命
高山右近は、キリスト教信仰を貫いたことで知られる。彼はイエズス会の宣教師と深く結びつき、信長や秀吉の時代に重要な役割を果たした。しかし、秀吉のキリスト教弾圧により、領地を没収され、後にマニラに追放された。彼の生涯は、戦国時代の政治と宗教の複雑な関係を象徴している。
このように、教科書では教えられない「本当の歴史」には、イエズス会の暗躍やキリシタン大名の知られざる貢献が隠されている。信長の窮地を救い、光秀と戦った高山右近の功績は、戦国史の一つの重要な局面を形成したのである。



