千葉県富津市の佐貫城、中世と近世の面影を今に伝える交通の要衝
佐貫城、中世と近世の面影を今に伝える交通の要衝

千葉県富津市にある佐貫城は、15世紀半ばの室町時代中期に築かれたとされる城跡です。明治維新で廃城となりましたが、城跡には開発の手が加えられることなく、石垣や空堀、郭など、往時の姿をしのばせる遺構が良好に残っています。軍事要塞としての色彩が濃い戦国期以前の中世城郭と、行政庁としての役割が大きくなった江戸期以降の近世城郭、双方の特徴を今に伝えており、お城マニアからの評価は高いと言えます。

住民有志による保存活動

「佐貫まちづくりいしずえ研究会」の志波徹会長(75)は、佐貫城の魅力について次のように説明します。「県内で幕末まで存続した城は、佐貫城を含めて5カ所しかありません。そのうち、城があった時の地形がそのまま残っているのは、ここだけなんです。」ほかの城跡は後年、佐倉城のように陸軍の連隊本部が置かれたり、大多喜城のように模擬天守が建てられたりして、姿が大きく変えられてしまいました。佐貫城跡は明治時代以降、一部が田畑や里山として利用されました。約30年前に市が購入し、公園にする構想が持ち上がりましたが、行政主導の計画は進まず、2005年に結成された研究会が「文化遺産を後世に伝えたい」と、ボランティアで整備に取り組んでいます。

志波さんは「里山だったころと異なり、草木や竹が伸び放題で立ち入れなくなっていました。草刈りや竹林の伐採などに加え、城や周辺史跡を調べて発信しています」と話します。月1回の草刈りは現在も続けられており、最寄りのJR佐貫町駅に掲示されている城跡までの案内マップは、研究会が原画を手がけました。

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城下町の面影を残す旧市街

駅正面の目抜き通りは、かつての大手道でした。城跡に向かって道を進むと、敵の侵入を防ぐクランク(丁字路)や、江戸時代創業の蔵造りの老舗「宮醤油店」などがあり、城下町の面影が色濃く残っています。城跡の登り口と交差し、幅50センチほどの溝には、澄んだ水が勢いよく流れています。これは、佐貫藩藩庁が置かれた江戸期の絵図に描かれ、近隣の農地を潤し続けてきた現役の用水です。志波さんは「湧き水が豊かな地域で、町には以前、造り酒屋が3軒ありました。しょうゆ醸造店は今も営業しています」と胸を張ります。

城跡の遺構と歴史

城跡では、時を知らせる太鼓やぐらが建っていた石垣、空堀、城館のあった本丸、二の丸、三の丸の郭跡などを歩いて巡ることができます。これらの配置は、江戸期の絵図面通りだと言います。佐貫城が築かれた時代の土塁をはじめ、中世の遺構も豊富に残っています。佐貫城は16世紀半ば、県南部の上総、安房を勢力圏とした戦国大名里見氏の支配下となり、合戦の最前線の拠点となりました。相手は、東京湾を挟んで対峙する相模(神奈川県)の戦国大名北条氏です。北条氏が城を占拠したこともあり、激戦が繰り広げられました。

長年にわたり城が維持され、時には争奪対象となった理由について、「千葉城郭保存活用会」の小室裕一代表(64)は「佐貫が交通の要衝地で、人と物資が頻繁に行き来していたから」と分析します。同会は、県内で史跡を軸としたまちおこしを進めており、4年前から年に1回、佐貫城周辺を歩くガイドツアーを研究会と共催しています。

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交通の要衝としての役割

城跡から3キロほど西に行けば、東京湾が広がります。房総半島の南端を回った太平洋側には、日蓮生誕の地で日蓮宗大本山の一つである誕生寺(鴨川市)があります。小室さんは「佐貫の港が、誕生寺を目指す相模方面からの参拝客の中継地となったのではないか」と指摘します。また、近隣の山から切り出された木材を建築資材として各地へ運ぶための集出荷地だったとも考えられるそうです。今ののどかな風情からは想像しにくいですが、海陸交通の結節点となり、中世から近世、近代にかけて多くの人が集まった佐貫。そのにぎわいを背景に城は築かれました。

1590年、豊臣秀吉の命で徳川家康が関東に移ったことに伴い、その家臣らが入居しました。江戸時代は主に幕府の有力譜代大名が城主を務めました。城跡はJR内房線佐貫町駅の東方約2キロに位置し、駅前ロータリーには周辺の史跡などを示した散策マップが掲示されています。城跡入り口近くに駐車場がありますが、城跡近辺に公衆トイレはないため、事前に駅などで用足しを済ませておくのが無難です。