「電車ごっこ」で炎から逃れた89歳男性が語り部に 東京大空襲の記憶を次世代へ
太平洋戦争末期の1945年3月10日、東京下町を中心に約10万人の犠牲者を出した東京大空襲から79年。当時8歳だった山田孝さん(89・国立市在住)は、たすきを使った「電車ごっこ」で炎から奇跡的に逃れ、昨年から自身の体験を語り始めた。「平和を続けることが私たちの世代の責任」という強い思いからだ。
「絶対にたすきを離さないで」 キヨ子さんの機転
神田区豊島町(現・千代田区東神田)で生まれ育った山田さん。3人の弟は母とともに静岡の実家に疎開していたが、学校に通い続けたいと願い、父・公一さん(1957年に52歳で死去)とお手伝いさんのキヨ子さんと3人で自宅に残っていた。
3月9日夜、父は軍需工場の仕事で不在の中、空襲警報が鳴り響いた。近所の防空壕はすでに満員で入れず、キヨ子さんはリュックから数本のたすきを結んで輪を作り出した。
「これから電車ごっこをします。私は運転手、孝ちゃんは車掌さんになってください。絶対にたすきを離さないで」とキヨ子さんは言い、山田さんは輪の中に入った。公一さんは事前にキヨ子さんに「絶対に迷子にさせないでくれ」と何度も念押しし、たすきを準備させていたという。
炎の中の逃避行 母子との悲しい別れ
両手でたすきを握りしめ、炎から逃げる途中、多数の遺体が転がる光景に直面した。キヨ子さんは「これからトンネルに入りまーす。目をつぶってください」と促し、山田さんは目を閉じたまま歩き続けた。
突然、「私も乗せてください」という声が聞こえた。赤ちゃんをおぶった見知らぬ女性だった。キヨ子さんが「どうぞ!」と声をかけ、輪の真ん中に母子を入れたが、赤ちゃんはすでに息を引き取っているように見えた。女性も途中で力尽き、輪から抜け落ちてしまったが、助け起こす余裕はなかった。
「逃げるのに精いっぱい。あのときの光景が今も忘れられない」と山田さんは声を震わせて振り返る。
戦後の人生と長年の沈黙
数日後に父・公一さんと再会し、静岡に疎開して敗戦を迎えた。貿易会社の幹部だった父は戦時中から「日本はアメリカかソ連に占領されるだろうから、英語かロシア語を覚えなさい」と諭していた。山田さんは後に繊維製品の製造販売会社を設立し、貿易にも携わり、「英語が役に立った」と語る。
しかし、空襲の記憶は深く心に刻まれた。数年後に自宅があった場所を訪れると、足が震えて血の気が引き、長年近づけなかった。自身の体験も「広島や長崎などで大変な思いをした人に比べると小さく感じる」とほとんど胸にしまい続けていた。
語り部としての決意 同世代の呼びかけ
転機は昨年3月、同い年で国立市内在住の東京大空襲語り部・二瓶治代さん(89)の講演を聴いたことだった。「同じような経験をしている人がいる。語り継がねば」と決意を新たにした。
秋には、戦争体験者の記憶を戦後生まれの世代が学び、伝承者として次世代に語り継ぐ国立市の事業に協力。研修会で「あの夜」の体験を語ると、伝承者らは真剣な表情で証言に耳を傾けたという。
意外な再会と未来への願い
同じ頃、空襲があった自宅近くを訪れると、隣家が残っており、幼なじみの女の子の孫に会うことができた。1943年に妹が亡くなった後、遺品のちゃんちゃんこをその幼なじみに譲っていた。空襲後、これを着た女の子の遺体が見つかったと聞かされていたが、実際は生き残り、戦後も長く生きていたことを知った。
山田さんは「いつか、母子が倒れた場所にも行って追悼したい」と語り、「戦争は起きてほしくない。私一人の声は小さくても、たくさんの声が集まれば、戦争を起こさせない力になるはずだ」と強調する。89歳の語り部は、平和への責任を胸に、次世代への継承を続けている。



