江戸時代の蘭学と身分を超えた緊張感 惣十郎と梨春の彦根藩訪問
惣十郎と梨春が彦根藩の蔵屋敷へと向かう道中、蘭書に関する会話が交わされた。惣十郎は「蘭書は学びのために目を通すようにしておりますが、医書が主ですのでお役に立てるかどうか」と述べ、検屍ではないのに同行させたことを詫びた。これに対し、梨春は恐縮しながらも、「俺ぁ蘭学も舎密もからきしだからさ、聞いたところで一度じゃ頭に入らねぇと思ってな。向こうさんが藩士となれば、再々呼び出すわけにもいかねぇしさ」と返答した。蘭学や化学への理解不足を認めつつ、身分の違いによる制約を感じさせる場面である。
蔵屋敷での異相の男 弓浜との遭遇
蔵屋敷の門口で用向きを告げると、御番所の役人が来たとあって邸内に物々しい気配が立ち上った。ややあって、泡を食って出てきた男は、額が突き出て目ばかりギョロギョロと大きい異相であった。彼は「拙者が弓浜だが、お粂の件か」と声を潜めて言い、惣十郎が頷くや草履を突っかけ、「表で話そう」と周囲に目を走らせたのち、大小をたばさむのも忘れて門から駆け出していった。惣十郎は思わず梨春と顔を見合わせ、「えれぇ慌てようだね」と訝りつつも、詮方なくそのあとに従った。
弓浜は惣十郎たちを振り返ることもなく、一散に亀島橋を渡り川口町の細い路地に入り込んだ。やがて一軒の見世の前で立ち止まり、ようやくこちらに振り返った。「ここだ」というように顎をしゃくり、先に敷居をまたぐ。看板には「窮理」とある。金物屋らしき二間間口の二階屋だった。惣十郎が中を覗くと、見世の奥から弓浜が「二階へ」と短く命じて、さっさと階段を上っていった。
窮理での緊張した対峙と突然の謝罪
店番をしていた白髪の男に会釈だけし、梨春とともに奥へと進みながら惣十郎は眉根を寄せた。同心が出向いたのにねぎらうこともなく、こんな場所まで連れ出した上、上役のごとき口調で命じた弓浜の態度に、「太ぇ野郎だな」と内心で思う。悪事を働いたわけでなし、加えて藩士という身分であるから、同心なぞ恐れることもないのだろうが、それにしても不作法だと感じた。
二階の六畳間には、金物を入れた木箱が積み重なっていた。その脇に弓浜はすでに端座しており、達磨のような目でこちらを睨んでいる。惣十郎が身構えるや、彼は突如両手を畳に突いて、「申し訳ございませんっ」と大音声で唱え、額を畳にこすりつけんばかりにして頭を下げたのだった。この突然の謝罪は、それまでの緊張した空気を一変させ、物語に新たな展開をもたらす瞬間となった。



