丸形ポストがつないだ14年の縁 震災で家族を失った福島の男性と名古屋の写真家
2011年の東日本大震災で妻と義母を亡くした福島県相馬市の会社員、大西唯章さん(59)と、名古屋市北区の郵便ポスト写真家、庄司巧さん(61)。被災地の無人駅に立つ丸形ポストを縁に、震災の翌年から続く14年にわたる交流は、喪失感を埋め、復興の歩みを写真で伝える思いを強くしてきた。
震災月命日にポスト磨く2人の姿
震災月命日の2月11日、福島県南相馬市のJR磐城太田駅前では、丸形ポストをワックスシートで磨き上げる2人の姿があった。1時間以上かけて水あかを丹念に拭き取り、「本当にきれいになった。最初と全然違う」と満足げな庄司さん。大西さんも笑顔でうなずく。
北海道出身の大西さんは1990年から相馬市の電子部品工場で働き、同僚の由美子さんと97年に結婚。息子2人に恵まれ、市内の沿岸部にある磯部地区の由美子さんの実家に移り住んだ。
15年前のあの日、家族を失った悲劇
15年前のあの日、大西さんは宮城県に単身赴任中だった。自宅にいた由美子さんにメールしたが、小学生の息子たちの無事を伝える数通のやりとりの後、連絡が途絶えた。交通網が混乱してすぐに帰れず、津波の被害を伝える報道に「ダメかもしれない」と覚悟した。
2日後に駆けつけた自宅は、津波にのまれていた。由美子さん(当時44歳)と同居していた義母の岩崎チヨさん(当時80歳)に再会したのは遺体安置所。磯部地区の集落は跡形もなくなり、251人の住民が犠牲になった。福島第1原子力発電所の事故もあり、息子2人は北海道の実家に預けるしかなかった。
仮設住宅での孤独とSNSでの出会い
仮設住宅に一人で入ったが、寂しさが募った。交流サイト(SNS)で人とのつながりを求め、インターネット上で偶然目にしたのが、2001年から丸形ポストの撮影を続ける庄司さんの投稿。家族で以前訪れた南相馬市の精肉店近く、磐城太田駅に赤い丸形ポストがあったことを思い出した。
写真を添えて庄司さんにメッセージを送ると反応があった。庄司さんは、44年の昭和東南海地震で母親が経験した津波の話を聞いて育ち、親族3人を豪雨災害で亡くしていた。「被災地の力になりたい。丸形ポストをきれいにすることで、街が少しでも元気になれば」。2012年4月、知り合いの郵便局員と2人で約6時間かけ、震災で色あせた丸形ポストの外装を赤く塗り直したのだった。
「まさかそこまでしてくれるとは」
「まさかそこまでしてくれるとは」と驚いた大西さん。これを機に交流は始まり、庄司さんが大西さんのもとを定期的に訪れるように。由美子さんらの慰霊とともに、複合災害に見舞われた福島を一緒に巡り、ポストを目印に写真で街並みを記録し始めた。
今年も磐城太田駅で丸形ポストの清掃を終えた翌日、撮影を続ける浪江町へ2人で車を走らせた。JR浪江駅の周辺は、帰還をあきらめた住民の家屋や商店の解体が進んで更地が広がり、大規模な再整備事業がようやく動き出したばかり。復興はまだ道半ばだ。
「私以上に被災地に強い思いを持っている」
カメラを向け続ける庄司さんの姿を大西さんは「私以上に被災地に強い思いを持っている」とどこか頼もしく感じている。「15年近くも続く交流は他にないですから」。庄司さんは被災地の姿を自身のブログや写真展でこれからも発信していくつもりだ。「震災を忘れてはいけない、との思いを写真でつないでいかなくては」と力強く語った。
この14年の交流は、単なる人と人とのつながりを超え、震災の記憶と復興の希望を象徴する物語となっている。丸形ポストが紡いだ縁は、これからも福島と名古屋を結び続けるだろう。



