「一緒にやろう」の精神で、ゼロからデフハンドを統括
「ハンドボールをやりに来ました!」と体育館に現れた中村有紀さん(48)は、二回りも若い聴覚障害のある男子選手たちと共にコートを走る。昨秋開催された聴覚障害者の国際スポーツ大会「東京デフリンピック」では、初出場初勝利を果たした男子ハンドボール日本代表を、ゼネラルマネジャー(GM)として統括した。中村さん自身も社会人チーム「筑波学園クラブ」の現役選手である。聴者でありながら、「デフスポーツの発展を考える以前に『一緒にやろう』の気持ちで続けてきた」と語る。
筑波技術大での出会いからデフスポーツへ
2004年、健康・スポーツ分野の大学教員として筑波技術大学(当時は短期大学部)に赴任した中村さん。同大学は聴覚・視覚障害者のための大学であり、彼女は主に体育を教えた。当時、聴覚障害や手話の知識は全くなかった。それまでの経歴は輝かしく、筑波大学在学中にハンドボールで2度の全国制覇を達成。大学院では女性スポーツ医学を研究しながら、同大学女子ハンドボール部のコーチを務めた。修了後は東邦大学の非常勤講師と母校の東邦大学東邦高校でコーチを経験した。
しかし、笛の音で全員が集まる世界から、音声を使えない環境への移行は困難を極めた。怒りたい時も、たどたどしい手話では気持ちを十分に伝えられない。大学側はデフスポーツの研究を期待したが、結婚や出産も重なり、2012年3月に別の大学へ移籍。以後、デフスポーツからは遠ざかった。
10年後の再開、ゼロからの組織作り
転機は2022年夏、筑波技術大学の中島幸則教授(63)からの一本の電話だった。別の用事の電話の最後に「サークルができたよ」と告げられた。当時学生だった小林優太主将(25)が東京デフリンピック出場を目指し、学内にハンドボールサークルを立ち上げたという。
当時、中村さんは日本スポーツ振興センターでデフスポーツ以外の競技力向上に携わっていた。「ハンドボール界でデフスポーツに関わったことがあるのは私だけではないか。出場に結び付けるには、私がやるしかない」と決意するまでに1年半を要した。強化のための組織も資金もゼロ。どんな助成金があるのか、選手や指導者をどう集めるか、試行錯誤の連続だった。
サークルから発展したクラブチームを社会人リーグに参入させるため、補聴器や手話通訳の必要性を理事会で説明。試合では氷やテーピングの準備も自ら行った。「やってみよう」を「やれる」に変えていった。
選手主体の「心のバリアフリー」
サークルから生まれた代表チームの監督やコーチには、ハンドボール界の伝手で聴者が就いた。デフスポーツは専門外だったため、大会半年前に強化が本格化すると、障害に対する指導者の理解不足が選手たちの間に疑問として浮上した。そこで中村さんは、主に指導者向けに中島教授の講義を提案。聞こえない、聞こえにくいとは何かを伝える試みだ。
講義では、淺井啓太選手(34)らが自身の障害をプレゼンテーションし、「全選手が対等に情報を受け取り、評価し合えるチームを」と訴えた。口コミやSNSで集まり、技量も障害のレベルも異なるチーム内に、相手を思いやる「心のバリアフリー」が生まれた。「こうすればみんなで楽しめるよ、と選手たちが見せてくれた」と中村さんは振り返る。
激務の末の病、それでもコートへ
大会までは研究員の仕事と並行し、「フルタイム勤務が二つ。家族に迷惑をかけっぱなし」だった。東京大会で目標の1勝を挙げた翌月、激務がたたり、視野全体が突然ぼやけた。正常な細胞を免疫が攻撃する原田病と診断され、入院を余儀なくされた。
コートに戻った今も葛藤はある。「デフスポーツの目的や社会的な意味を置き去りにしていないか。『一緒にやろう』しかできないけど、それでいいのか」。それでも、しばらくはデフハンドに関わるつもりだ。「ハイレベルな試合で点を取る瞬間が楽しい。デフ選手にもそれを知ってほしいから」



