板橋区で高島秋帆没後160年記念展 高島平の名の由来となった西洋砲術家を紹介
東京都板橋区立郷土資料館では、江戸時代後期の砲術家・高島秋帆(1798~1866年)の没後160年を記念した特別展が開催されています。展示は15日まで行われ、入館は無料ですが、月曜日は休館日となっています。
高島平の地名の由来となった歴史的演習
板橋区北部の高島平地域は、かつて徳丸原と呼ばれる広大な芝地でした。ここで1841年(天保12年)、高島秋帆が日本で初めて近代的な西洋砲術演習を実施しました。この演習は、幕府の鉄砲方らを前に、弟子99人を指揮して大砲8発を撃つというもので、記録に残る歴史的な出来事です。
秋帆は長崎で町年寄を務める家に生まれ、戦国期以来の火縄銃を中心とする和流砲術「荻野流増補新術」を学びました。さらに、長崎のオランダ商館に出入りし、砲術の入門書や大砲を輸入して研究を重ね、オランダの西洋兵学を取り入れた高島流砲術を確立しました。
シーボルトからの影響と幕府への進言
横浜薬科大学の梶輝行教授(歴史学)は、秋帆を30年以上研究しており、最新の研究成果を紹介しています。それによると、1825年に幕府が出した異国船打払令を機に、秋帆は西洋砲術に傾倒し、長崎のオランダ商館付の医師シーボルトから西洋砲術を教わったとされています。
「西洋シイホルヨリ高嶋先生江相伝之砲術」と書かれた文書や、シーボルトが秋帆と大砲の話をした逸話などが、この関係を裏付けています。秋帆は、英国と清のアヘン戦争を例に挙げ、西洋砲術の本格的導入を長崎奉行を通じて幕府に進言しました。
展示資料と地域への影響
区立郷土資料館では、127点の展示資料を公開しています。これには「西洋シイホル」の文書、秋帆が手がけた書画、砲弾を模した鉄瓶などが含まれます。特に、秋帆が描いた「ちょっとゆるキャラ風の猛虎図」は、長崎から約30年ぶりに借りてきた貴重な資料です。
細樅雄貴学芸員は、「地域に名を残した秋帆を知ってほしい」と語り、展示を通じてその功績を伝えています。秋帆の演習は幕府や各藩に大きな衝撃を与え、多くの藩が西洋砲術を採用するきっかけとなりました。
高島平の地名誕生と現代へのつながり
明治以降、徳丸原は水田が広がりましたが、1965年(昭和40年)に団地建設が決定します。そして1969年(昭和44年)、秋帆の名声を広めた名字と、地域の地形を表す「平」を組み合わせた「高島平」が新地名として制定されました。
この記念展は、高島平のルーツを探り、日本の近代化に貢献した高島秋帆の足跡を振り返る貴重な機会となっています。地域の歴史を深く知ることで、板橋区の文化的な豊かさを再発見できるでしょう。



