奈良墨の黒の秘密:科学が照らす伝統の技
1400年前の飛鳥時代、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わったとされる墨の製法。神社仏閣が多く、古くから墨の需要が高かった奈良では、その伝統が脈々と受け継がれ、現在では全国の固形墨の9割以上が奈良県で生産されています。「奈良墨」は国の伝統的工芸品に指定され、その優れた品質は国内外で高い評価を得ています。近年、科学の光を当てることで、墨作りの秘密が次々と解明され、伝統への理解が深まっています。
風土が育む墨作りの歴史
墨は610年、朝鮮半島の僧・曇徴によって日本に初めて製法が伝えられたとされています。写経や文書作成、学問に欠かせない存在として、奈良の地で墨作りが発展しました。例えば、興福寺(奈良市)の灯明を使って作られた墨は、深い黒みと光沢を放ち、高い評判を集めました。このように、奈良の歴史と文化が墨の品質を高めてきたのです。
伝統的な固形墨は、菜種油や松材などを不完全燃焼させて得られる黒い微粒子の凝集「煤(すす)」と、動物の骨や皮を煮出した天然の接着剤「膠(にかわ)」を、およそ10対6の割合で混ぜ合わせて作られます。香料を加えて練り上げ、型に入れた後、数か月かけてじっくり乾燥させます。暑い時期は膠が傷みやすいため、製造は10月から4月の寒い時期に限られます。奈良製墨組合理事長で墨運堂社長の松井昭光さん(55)は、「海から遠く潮風の影響が少なく、盆地で底冷えする厳しい冬の寒さといった奈良の地理的要因が、墨作りに好影響を与えたのかもしれません」と指摘します。
高校生の研究が明かす煤の形成メカニズム
安土桃山時代の1577年創業の老舗「古梅園」(奈良市)では、伝統的な製法を忠実に守り続けています。原料の煤は、専用の蔵の中で菜種油を土器に入れ、イグサで作った芯の一部を浸らせて火をともし、土器の覆いをかぶせて集めます。覆いを回しながら煤煙が偏らないように内側に付けていく工程は、職人の経験と勘に頼るところが大きいものでした。
しかし、この煤が炎の中でどのように形成されるのか、その謎に地元の県立奈良高校の生徒たちが挑みました。同校は「スーパーサイエンスハイスクール」に指定され、2020年には廉明徳さん(現・広島大学総合科学部3年)や仲野純章教諭(現・四天王寺大学准教授)らが、地域に根ざした研究課題として固形墨に着目。古梅園の協力を得て、炎の高さごとに煤の状態を調べた結果、従来の説を覆す発見がありました。
煤はこれまで、芯付近から炎の中を上昇しながら形成されると考えられていましたが、実際には芯に近い「炎心」とその外側の「内炎」の境界付近で急激に形成されることが判明したのです。さらに、奈良墨には「小さな芯で小さな炎にすると、良質な煤ができる」という職人の経験則があります。これを検証するため、大きさの異なる3種類の芯を燃やして煤を採取し分析したところ、最も小さい芯から生まれた煤は粒径が小さく、科学的に良質であることが実証されました。この研究成果は2025年、国際学術誌「カーボントレンズ」に掲載され、伝統の技に新たな光を当てました。仲野准教授は、「墨に最適な煤は従来説より芯に近い位置でできるため、炎が小さいと凝集が進み過ぎず、よい煤になる可能性があります。地域の学校の研究が、伝統を守る支えになれば嬉しいです」と語ります。
膠の歴史を探る考古学的アプローチ
固形墨のもう一つの原料である膠の歴史にも、科学的研究が及んでいます。奈良女子大学の中沢隆名誉教授(生命有機化学)らは、奈良市の平城京跡から出土した8世紀前半から中頃の墨(約1.5センチメートル四方)の原料を分析しました。出土時は水に浸かった状態でしたが、膠の成分であるコラーゲンが残存していました。
質量分析装置を用いた詳細な解析により、たんぱく質を構成するアミノ酸の配列から、牛のコラーゲンと一致する微量のアミノ酸が検出されました。墨作りに牛の膠を使用することは正倉院文書に記されていますが、成分が実際に確認されたのは初めてのことです。これにより、奈良の墨の製法が奈良時代から連綿と引き継がれていることが裏付けられました。中沢名誉教授は、「もっと古い時代や全国各地の墨を収集・分析できれば、製法の変遷を追えるかもしれません」と展望を語ります。
生産量減少の現状と未来への展望
一方で、固形墨の生産量は需要減に伴い、減少傾向に歯止めがかかっていません。奈良製墨組合によると、1935年に2265万丁(1丁=墨15グラム)だった生産量は、2013年には70万丁にまで落ち込み、わずか80年で3%に激減しました。書道人口の減少に加え、手軽に使える液体墨の普及が拍車をかけ、組合員数も減少しています。
しかし、墨は1000年以上前に書かれた文字も消えずに残る耐久性を持ち、固形墨は製造から100年経っても使用可能な超長寿命製品です。古梅園の竹住享営業部長(66)は、「墨は日本の歴史を伝え、文化の発展に大きく貢献してきました。伝統の技を守り、墨を後世に長く伝えていきたいです」と力強く語ります。科学的研究が進む中、伝統と革新のバランスを取りながら、奈良墨の未来が模索されています。



