彫刻「さらわれたかたち」、愛媛の老舗バーから美術館へ新たな旅立ち
彫刻家・森堯茂(たかしげ)氏が手がけた作品「さらわれたかたち」は、少し居心地が悪そうに見えたかもしれません。松山市の老舗バー「露口」のカウンターに長年置かれていたこの彫刻は、現在、久万高原町の町立久万美術館に展示され、絵画や陶器に囲まれた新たな環境に溶け込んでいます。
露口夫妻と美術館の深い縁
「愛着がある。やっぱりきちんと保管してもらいたかった」。2022年に店を閉め、翌年には夫の露口貴雄氏を亡くした朝子さん(83)が頼ったのは、40年来の常連でもあった同館館長の高木貞重氏(79)でした。多くの文化人に愛された露口は、久万美術館ともゆかりが深く、そのつながりは世代を超えて続いていました。
同美術館は、林業家の井部栄治氏(1909~87年)の収集品をもとに設立されましたが、その多くは松山市出身の美術評論家・洲之内徹氏(1913~87年)が経営する画廊から購入されたものです。そして、井部氏の功労をたたえる同館のモニュメントを手がけたのが森氏でした。洲之内氏と森氏は、いずれも至高の一杯を求め、露口に足しげく通ったことで知られています。
美術館とバーの相互支援
高木館長は、森氏の紹介で初めて露口を訪れました。当時、愛媛新聞の文化担当記者だった高木氏は、退職後に館長となってからも頻繁に顔を出し、すし詰め状態で企画展の打ち上げを開いたこともありました。貴雄氏は美術に理解があり、展示のチラシを置いて宣伝してくれたといい、「美術館の意図を正確に伝えてくれるのが露口だった」と感謝の言葉を述べています。
一方、露口夫妻にとっても、久万美術館は大切な場所でした。2人で毎年訪れ、アート談議に花を咲かせたといいます。朝子さんは「足を踏み入れると、草原がばーっと、山奥に広がっているような感じがした」と評し、「最後はゆっくり椅子に座り、庭なんか眺めてね。貴雄さんと作品の話をたくさんした」と懐かしんでいます。
作品の移設と新たな展示
「さらわれたかたち」を贈りたい――。朝子さんからの申し出に対し、高木館長には断る理由がありませんでした。彫刻家のキャリアを振り返る上で、重要な作品の一つだと認識していたからです。初期の森氏は人物像を専門に彫っていましたが、この頃の作品には、具象をきっぱりとやめ、抽象彫刻家としての道を歩む決意が込められていると感じていました。
作品のたどってきた道のりも魅力的でした。元々は洲之内氏が大切に所有し、曲折を経て、貴雄氏が気に入って譲り受けたとされています。そして、高木館長が「あんな店はもうないだろう」と惜しむ露口のカウンターで、酒客たちの一期一会を見守り続けた存在でした。
昨夏に久万美術館で受け入れ、開催中のコレクション展で小特集「酔を求めて、飲み“歩く”」を組んで初披露されました。朝子さんは「帰るべき所へ帰ってきた感じ」と胸をなでおろしています。この作品を見ると、露口のカウンターの中で貴雄氏がグラスにウイスキーと氷を入れ、ソーダを注ぎ、ハイボールを丁寧に作る姿がまざまざとよみがえるといいます。
露口の歴史と遺産
露口は1958年に開店したカウンター13席のバーで、露口夫妻が二人三脚で切り盛りしました。ウイスキーの割合が高いハイボールが人気を集め、貴雄氏は、サントリーが2013年に発売した「角ハイボール缶<濃いめ>」のレシピ監修も務めました。カウンターの一枚板などがサントリー山崎蒸溜所(大阪府島本町)に移設され、露口の店内が再現されています。
「露口の思い出とともに、この場所でまた皆さんにお会いできたらうれしいです。なんちゃって」。朝子さんは作品の思いを代弁し、悲しみを振り払うように、ちゃめっ気たっぷりに笑いました。彫刻「さらわれたかたち」は、今、美術館という新たな居場所で、訪れる人々に静かに語りかけています。



