江戸城の防御構造と石垣に残る大火の痕跡を探る
江戸城の防御構造と石垣に残る大火の痕跡

東京都千代田区に位置する江戸城は、徳川家康をはじめとする歴代将軍が居住した城郭であり、その規模は日本最大、世界でも屈指の広大さを誇ります。現在の皇居や皇居東御苑、北の丸公園一帯がその中心であり、1868年に皇居となって以降も修繕が続けられ、江戸時代の面影を残す遺構が数多く存在します。

堅牢な防御構造

大手門から城内に入ると、まず目に飛び込むのは枡形門と呼ばれる防御構造です。二つの門で入り口の向きを変え、侵入者の方向感覚を狂わせ、櫓門からの攻撃を可能にしています。この構造は他の多くの門にも採用されており、江戸城の守りの堅さを象徴しています。さらに、約200メートル区間には同心番所、百人番所、大番所と三つの番所が現存し、登城者を厳しく監視していた様子がうかがえます。

石垣に残る大火の痕跡

本丸へと続く坂道の途中にある中雀門跡では、石垣に黒く焦げてひび割れた跡が残っています。これは1657年の明暦の大火で焼け落ちた天守台の石垣であり、渡辺功一さん(歴史探訪サークル代表)によれば、「白石は瀬戸内産の花こう岩、黒石は伊豆石で、十分に使用可能であることと、江戸を焼き尽くした大火を忘れさせない意図から、再建時にもそのまま使われ続けた」とのことです。

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本丸跡と天守台

中雀門跡を抜けると、広大な本丸跡が広がります。13ヘクタールの芝生には、かつて幕府の中央政庁である「表」、将軍の執務・生活エリア「中奥」、そして女性だけの「大奥」が配置されていました。中奥と大奥の間は厳重に仕切られていたとされ、渡辺さんは「女の園へ男を入れない名目だが、本当の理由は天守の下に隠した御金蔵に近寄らせないためではないか」と推測します。

大奥跡の北側には城郭の象徴である天守台跡があります。家康の入城以来、天守は3度建設され、特に1638年完成の寛永期天守は高さ約60メートル、標高を含めると80メートルにも達し、江戸の町を一望できました。しかし、57年の明暦の大火で焼失。その後天守台は再建されたものの、復興を優先し天守そのものは再建されませんでした。

現存する貴重な櫓

東御苑内には、天守台の反対側に三重構造の富士見櫓が現存します。これは再建を断念した天守に代わり、将軍が富士山や両国の花火、品川の海を眺めた場所とされています。現在、現存する櫓は富士見櫓、伏見櫓、巽櫓の三つのみであり、その貴重さが際立ちます。

生活の痕跡と防御の工夫

天守台から東へ下った平川門付近には、鬼門に位置する門と、堀の船着き場へ通じる階段があります。ここから本丸の遺体や罪人、下肥などが舟で搬出されました。特に大奥の下肥は「金肥」と呼ばれ、下総方面で野菜と交換されていたといいます。

防御構造の観点では、天守台近くの北桔橋門も見逃せません。門の天井付近には鉄の金具があり、敵が攻めてきた際に木製の橋を引き上げて金具に引っ掛け、橋を無効化できたそうです。

都心の真ん中にありながら、半日では回りきれないほどの見どころが詰まった江戸城。緑豊かで落ち着いた空間の中で、歴史的出来事を体感できる貴重な場所です。渡辺さんは「歩いてみれば歴史的な出来事が頭の中でつながり、理解も深まります。何度も訪れて歩いてほしい」と語ります。

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城下町を含めた城郭全体の外周は、神田川や外堀に沿ったJR浅草橋駅から四ツ谷駅、東京メトロ赤坂見附駅、溜池山王駅、御成橋(JR大崎駅付近)に及ぶとされ、中心部は内堀に囲まれた皇居、皇居東御苑、北の丸公園、皇居外苑の約101ヘクタールです。皇居東御苑は21ヘクタールで、1968年から宮中行事に支障のない範囲で公開されています(月曜・金曜を除く)。皇居も事前予約または当日整理券で一般参観が可能です(日曜・月曜を除く)。