東日本大震災翌日の殺人事件から15年、娘の生きた証を伝え続ける父の歩み
震災翌日の殺人事件から15年、娘の証を伝える父 (21.03.2026)

震災翌日の悲劇、娘を失った父の15年

徳島被害者支援センターの理事を務める清家政明さん(77)は、毎年3月11日の東日本大震災の発生日が近づくと、複雑な感情に揺さぶられる。当時36歳だった長女・千鶴さんは、被災地へのボランティアを計画していた矢先、2011年3月12日、京都市内の勤務先薬局で殺人事件に巻き込まれ、命を落としたのだ。

最後のメールと理不尽な事件

事件前日、清家さんは広島県福山市への用事を控えていた。大津波警報が発令される中、千鶴さんから「できたら日を改められませんか? ばあちゃんや母上も心配するよ」とのメールが届いた。予定を取りやめると伝えると、「やれやれ安心しました。こちらは通常勤務です」との返信があった。これが父娘の最後のやりとりとなった。

翌13日、京都府警川端署から連絡を受けた清家さんは、前日に千鶴さんが亡くなった事実を知らされる。部下の男性(当時30歳)が「世の中が嫌になって誰かを殺そうと思った」と供述し、緊急逮捕されていた。清家さんはその場に立ち尽くし、その後の経過はほとんど記憶にないという。

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「鶴のように千年も幸せに」と命名された娘

1974年、徳島市で長女として生まれた千鶴さん。「鶴のように千年も幸せに長生きしてほしい」との願いを込めて名付けられた。活発な性格で、小学生時代から合唱に打ち込み、3人きょうだいのまとめ役として成長した。

「薬を作って人の役に立ちたい」との夢を抱き、京都薬科大に進学。薬剤師としてキャリアを積み、薬局の店長を任されるまでになった。2007年には職場の同僚と結婚し、結婚後も清家一家の中心的な存在として家族を支え続けていた。

司法との闘いと感じた限界

司法解剖の結果、死因は心臓損傷と判明。「なんで娘が。こんな紙1枚で千鶴の人生が終わってしまうことは絶対に許せない」と、清家さんら遺族は被害者参加制度を利用し、極刑を求めることを決意した。

2012年3月に始まった裁判では、残忍な犯行の詳細が明らかになった。男性は人間関係の行き詰まりから「誰でもよいから人を殺そう」と考え、偶然2人きりになった上司の千鶴さんを背後から刺した。千鶴さんは「まだ死にたくない」と声を上げていたという。

しかし、同年3月16日の判決は無期懲役。「千鶴の命は被告より軽いのか。司法はただの相場でしかなかった」と、清家さんは刑事司法に限界を感じた。

被害者支援への転身

失意の中、転機が訪れたのは事件から3か月後。徳島県警からの依頼で警察学校で講演を行ったのだ。「自分の経験が誰かの参考になるのなら」との思いから引き受けたこの講演を皮切りに、清家さんは被害者支援活動に本格的に取り組むようになった。

警察官や学生、自治体職員などに向けて、年に10回近く講演することも。千鶴さんの生い立ちや事件の経過を写真付きで説明し、家族が受けたショックや回復までの道のりを率直に語ることで、被害者支援の重要性を訴え続けた。

徳島被害者支援センターの理事にも就任。「つらいことはつらい。一人で悩まないで。相談する人はいくらでもおるよ」と、同じ苦しみを抱える人々に寄り添う言葉をかけている。

「千の風文庫」と継続する活動

裁判のために集めた100冊以上の本を、自身が理事を務めるセンターに寄贈。千鶴さんの名前から一字を取って「千の風文庫」と名付け、希望者への貸し出しを開始した。

また、自身の提案から犯罪被害者のためのノートを作成。捜査や手続きで繰り返し被害内容を説明する精神的負担を軽減するため、被害時の記録ページや刑事手続きの流れ、支援制度を紹介している。

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加害者の自死と新たな決意

2021年、事件から10年が経過した頃、服役中の男性が収容先で自死したとの知らせを受けた。「なぜ事件を起こしたのか」と問いたい思いは叶わず、「事件はもう完全に終わった」と感じた瞬間でもあった。

しかし、清家さんは支援活動を止めなかった。講演は60回を超え、徳島県犯罪被害者等支援審議会の委員としても意見を述べ続けている。

「生きた証し」としての記憶

「生きた証しを残す」――この思いに至るまで、清家さんは長年自身の心と向き合ってきた。悲しみや怒り、後悔が入り混じった感情を時間をかけて整理し、亡き娘との思い出を大切に生きることを選んだ。

かつて千鶴さんが働く薬局を徳島からこっそり見に行き、恥ずかしがられて追い返されたような、たわいもない日常の記憶がいとおしく思えるようになるまで、事件から10年ほどかかったという。

今では講演で涙を見せず、穏やかな口調で経験を語ることができる。しかし、毎年3月が来ると当時を思い出し、心が揺らぐことは変わらない。事件から15年となった今年3月12日、自宅で手を合わせた清家さんは、生きていれば51歳だった娘の人生に思いを馳せた。

娘とともに歩み続ける

千鶴さんが高校まで使っていた部屋はそのまま保存され、遺骨も自宅に安置されている。「少しでも近いところにおる方がええんちゃうかと」という思いからだ。

清家さんは、体力が続く限り支援活動を続けると語る。それは単なる社会貢献ではなく、娘・千鶴さんとともに歩み続けるための道なのだ。事件で奪われた命が、今では多くの人々の支えとなり、社会に変化をもたらしている。清家さんの15年にわたる歩みは、悲劇を乗り越え、希望を見出す人間の強さを静かに物語っている。