97歳の波田達郎さんが語る、原爆きのこ雲の写真撮影と核兵器の脅威
97歳が語る原爆きのこ雲写真撮影と核の脅威 (28.03.2026)

97歳の波田達郎さんが語る、原爆きのこ雲の写真撮影と核兵器の脅威

1945年8月6日、広島に原爆が投下されたその日、爆心地から約4.2キロ離れた仁保町(現在の広島市南区)の自宅から、波田達郎さん(当時16歳)は、空に立ち上る真っ白なきのこ雲を撮影しました。現在97歳となった波田さんは、その記憶を鮮明に語り、核兵器の脅威を後世に伝え続けています。

原爆投下の瞬間と写真撮影の経緯

波田さんは、中学に上がる前にカメラが趣味だった父から写真の撮り方を教わりました。1945年春、広島一中(現・県立広島国泰寺高)を卒業後、東洋工業(現・マツダ)で銃の部品を作る学徒動員に従事していましたが、広島師範学校への入学が決まったため、8月に解除されました。原爆投下当日、両親の代わりに5歳と3歳の弟2人の面倒を見ており、自宅の縁側に座って外を眺めていました。

突然、真っ白い光が目の前に広がり、気がつくと3、4メートルほど先の部屋の壁や天井が落ちていました。大きな音がしたはずですが、その記憶はなく、慌てて弟2人を両脇に抱えて勝手口から外に出ました。父は少し離れた田んぼで草刈りをしており、走って戻ってきました。空を見上げてきのこ雲を見つけると、波田さんに「あの雲を見ろ。写真撮っとけ」と言いました。自宅の中にあったカメラを持ち出し、夢中で5回ほどシャッターを切りました。

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写真の現像と公開までの道のり

その後、家のすぐ近くの防空壕に避難し、「この先どうなることか」と考えながら、きのこ雲を見ていました。お昼過ぎに自転車で様子を見に来た親戚が「新型爆弾だそうです」と教えてくれ、たった1発でこんなことになるのかと思いました。父が広島駅近くの写真店に持って行って現像した写真には、まともなフィルムがなかったからか、無数の黒い点が付いていました。

数年後、自宅に咲いていたボタンを写生しに来た画家が、父からきのこ雲の写真のことを聞き、「大切な資料じゃけ、中国新聞に持って行かないけん」と言って中国新聞社に持ち込み、紙面に掲載されました。撮影者は父の名前でした。それから50年以上がたった2023年、中国新聞にきのこ雲を撮影した人物の名前の一覧表が掲載され、父の名前がなかったため、波田さんが問い合わせると、中国新聞の元記者と広島平和記念資料館の担当者が話を聞きに来ました。

写真の寄贈と核兵器への思い

波田さんは、きのこ雲の写真と撮影に使ったカメラを広島平和記念資料館に寄贈しました。当時、父に言われて撮った写真ですが、今は撮影しておいて良かったと思っています。時間がたっても、世の中の人たちに原爆の威力を伝えられるのが写真の持つ力です。

たった1発で広島の街が壊滅するほどの被害が出ますから、昔の何倍もの威力があるといわれる現在の核兵器が、使われたらどうなるんだろう。写真を見た人たちには、原爆を使用するとどうなるのかを改めて考えてもらいたいと、波田さんは語ります。

波田達郎さんの経歴

1929年3月生まれ。戦後、「米国に負けたんだから、これからは英語が重要になる」と考え、広島文理科大(現・広島大学)で英語を学びました。卒業後は英語教諭の道に進み、現在は広島市南区で不動産会社を営んでいます。97歳となった今も、核兵器の脅威を伝える活動を続けています。

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