連載「揺れるコメ改革」の第1回では、過去半世紀にわたる日本のコメ政策に潜む謎に迫る。なぜ政府はコメ余りを防ぐために減反政策を選択し、海外輸出に活路を見いださなかったのか。歴史文書を分析すると、「コストの壁」と「米国の圧力」という二つのキーワードが浮かび上がる。これらの要因は、現在のコメ生産の課題にも深く関わっている。
「貧乏人は麦飯を」の時代背景
戦後の食糧難が終わり、コメが余剰となる中、政府は減反政策を試験的に導入した。1969年には主食用米の生産制限に踏み切り、小麦や大豆への転作が進められた。一方で、コメ輸出の可能性も検討されたが、日本のコメは国際競争力を失い、海外産より高価だった。そのため、輸出には税金を投入して国内価格との差額を補填し、格安で提供する形が必要だった。
外務省内部文書が示す警戒
外務省が公開した1969年12月の内部文書には、「対外的に余剰米処理を匂わせることを極力避けることが肝要である」と記され、手書きで「匂わざるをえない」と揶揄するような追記があった。この文書は、余剰米処理を国際的に警戒する理由を物語っている。当時、日本は韓国に33万3千トンのコメを無利子で貸し出すなど、破格の条件で輸出していた。しかし、米国からの苦情を避けるため、こうした計画を秘匿する必要があったのだ。
現在に続く課題
この歴史的な壁と圧力は、令和の米騒動やコメ政策の混乱にも通じる。農水省は減反政策を事実上継続し、輸出促進に消極的だった。専門家は、コスト競争力の欠如と国際的な圧力が、日本のコメ輸出を阻んできたと指摘する。コメ改革の行方は、過去の選択を検証することなしには見えてこない。



