埼玉県さいたま市が誕生してから、2026年で25年を迎える。2001年5月に浦和、大宮、与野の旧3市が合併し、21世紀の幕開けとともに新たな都市が誕生した。その後、2005年には旧岩槻市が加わり、現在では人口135万人を超える大都市へと成長を遂げている。新旧の写真を比較しながら、四半世紀にわたる変化を見つめ、街の将来を考えるシリーズの第3回は、与野地区に焦点を当てる。
大ケヤキが象徴した風景
JR与野駅東口にそびえていた「大原の大ケヤキ」は、高さ13メートル、根元の幹回り7.6メートルという巨木だった。この木が伐採されたのは2010年5月のこと。与野駅自体は1912年に開業し、東口ができたのは1958年である。大木のあった西高通りには右折レーンが設けられ、現在は行き交う車が絶えない。
住民の記憶に残る大ケヤキ
長年この地域で暮らす荒井悦子さん(92)は、初めて東口に降り立った60年以上前を振り返る。国鉄マンだった夫の春雄さんとともに東京都内から転居した当時、官舎の周りは畑だらけで、2階建て以上の建物はほとんどなかったという。やがて人が増え、家が増え、店も増える中で、初めは「邪魔くさい」と思っていた大ケヤキが、今では「与野の象徴だった」と寂しさを募らせる。
また、近くに住む浦和郷土文化会理事の野中味恵子さん(71)によると、この場所は中山道の浦和宿と大宮宿の中間地点にあたる。江戸時代には茶店があり、富士山、浅間山、甲斐、武蔵、下野日光、上州伊香保の山々を見渡せる「六国見」の名所だったという。現在は旧中山道沿いにマンションが立ち並び、北にはさいたま新都心のビル群がそびえ立つ。長い年月をかけて育った大ケヤキのように、街も年輪を重ねている。
伐採に至った経緯
大ケヤキの伐採は、通勤・通学による混雑を緩和するための都市計画の変更がきっかけだった。当時、与野駅西口は既存の都市計画に沿って再開発がほぼ完了していたが、東口は遅れていた。駅前広場を整備し道路を広げるには、旧中山道と西高通りの交差点に位置する大ケヤキをどうするかが課題となった。
住民や行政は「西高通り古樹ケヤキ対策委員会」を結成し、大ケヤキの寿命調査や伐採、移植、継承の可能性を探った。その結果、樹勢が弱り回復不能で倒木の危険もあることが判明し、伐採が決定された。樹齢は300年と伝えられていたが、伐採後の調査で500年以上であることが判明した。
当時、市職員として都市計画変更を担当した市長公室副参事の土屋愛自さん(64)は、「地元の方の思い入れの強さを感じた」と振り返る。しかし、当初計画していた東口の再開発は滞ったままで、駅前広場は今も未完成の状態が続いている。「やっぱり早く造りたい」と土屋さんは語る。
大ケヤキの記憶を継承
対策委員会は大ケヤキから種を採取し、後継樹を育成。与野駅西口のロータリーや「上木崎大けやき公園」などに植えられた。また、伐採した幹から作られたオブジェ「風の記憶」は、与野駅構内や市子ども家庭総合センター「あいぱれっと」、浦和西高校に展示され、大ケヤキの記憶を伝えている。
与野の歴史と現在
2001年の合併により、旧与野市はさいたま新都心西側地区の一部を加え、中央区となった。大原の大ケヤキがあった与野駅東口は旧浦和市(現浦和区)、西口は駅前を除き旧与野市である。1985年には埼京線の北与野、与野本町、南与野駅が開業し、2000年にはさいたま新都心がオープンして開発が進んだ。旧与野市の妙行寺金比羅堂境内には「与野の大カヤ」(国指定天然記念物)もあり、樹齢千年と伝わる。
大ケヤキが伐採されてから15年以上が経過したが、その記憶は街の至る所に刻まれている。住民たちの心に残る大ケヤキの風景は、これからも語り継がれていくことだろう。



