能登半島の古代史:古墳と海上交易が語る躍動的な交流の軌跡
縄文時代から海を介した交流が盛んだった能登半島は、古代になると列島各地や大陸へと目を向ける重要な地域へと発展しました。遺跡の発掘成果からは、豊かな自然と静かな漁村という牧歌的なイメージとは異なる、躍動的な姿が明らかになっています。
海にゆかりのある古墳が2000基集中
能登半島では、古墳が意外にも集中して存在しています。石川県内で確認された3000基を超える古墳のうち、約2000基が能登に集中しているのです。例えば、志賀町の千浦二子塚古墳群では、12基の円墳が海岸段丘に築かれ、激しい波が打ち付けていました。石川考古学研究会副会長の伊藤雅文さんは、「縄文時代から海に依存した生活をしてきた能登には海上交通の技術の蓄積があり、海を望む場所に築かれた古墳には被葬者と海との強いつながりが感じられる」と指摘します。
能登最大規模の首長墳である雨の宮古墳群も海を見渡せる場所に位置し、海にゆかりのある古墳が多いことが特徴です。さらに、七尾湾岸の万行遺跡では、3世紀半ばから4世紀頃の倉庫跡とみられる国内最大級の大型掘立柱建物群が発見され、「日本海の物流拠点」として大きな注目を集めました。
大陸との活発な交流と技術の波及
古墳時代の能登では、大陸との活発な交流が確認されています。須曽蝦夷穴古墳は、一つの墳丘に二つの石室を持つ「双室墳」という特徴的な形態で、朝鮮半島との関わりが指摘されています。千浦二子塚古墳群でも、北部九州の影響を受けた石室に加え、同様の双室墳が見られます。伊藤さんは、「近くの遺跡からは大陸由来とみられる移動式カマドも出土しており、外来の要素を受け入れる素地が古墳時代の能登にはあった」と見ています。
海上交易で力を蓄えた能登の集団は、地域の有力豪族となりました。日本書紀には、能登が中央政権の北方政策の前線基地として組み込まれた様子が記されています。飛鳥時代の660年には、斉明天皇の命を受けた阿倍比羅夫による北方遠征で、能登の豪族・能登臣馬身竜が戦死したとあり、淑徳大の森田喜久男教授は、「その死が正史に特筆されたことは、斉明朝における東北経営において能登半島が重要な役割を果たしていたことを示す」と指摘します。
大陸文化の玄関口としての役割
能登は、大陸文化が流入する玄関口としても機能しました。冬の季節風が大陸から船を運び、春先には南からの風に乗って帰国するという往来が活発化しました。渤海国からは中国の暦など最新知識がもたらされ、一方で、七尾市の小島西遺跡や羽咋市の寺家遺跡などで見られる祭祀の痕跡は、外界との往来による疫病対策によるとの見方もあります。金沢学院大の小嶋芳孝名誉教授は、朝廷が能登一の宮の気多大社を厚遇したのも、「境界神としての役割を期待してのものだった」とみています。
大伴家持が和歌に詠んだ能登の姿
古代の能登の姿について和歌で記録したのが、万葉集の編纂者・大伴家持でした。越中国国守だった家持は748年、当時同国の領内だった能登を巡行し、造船用の木が切り出された「能登の島山」などを題材に歌を詠みました。羽咋市の千里浜海岸には、家持の歌にちなんだ歌碑が建立されています。
2011年には、万葉集研究者で元号「令和」の考案者としても知られる中西進さんによる新たな歌碑が建てられました。中西さんは、「家持が山道を越えて発見したのは朝凪した海だった。大陸から吹く冬の凍風が去り、春への季節の変化を感じ取った家持は、穏やかでハーモニアスな風こそが母国である大和の風なんだと実感したことでしょう」と語っています。
しかし、こうした貴重な歴史的遺産は、2年前の能登半島地震で大きな被害を受けました。千浦二子塚古墳群では崩落の進行を防ぐため土嚢を積むなどの処置が施されましたが、修復が手つかずの古墳も多く、古代の交流の軌跡を守る取り組みが求められています。



