古代の糟屋郡は大宰府の交通・物流拠点だった 発掘調査で役所跡や港湾施設が明らかに
古代糟屋郡は大宰府の交通・物流拠点 発掘調査で判明

古代の糟屋郡が大宰府の交通・物流拠点だったことが発掘調査で明らかに

かつて筑前国糟屋郡と呼ばれた福岡平野東部で進む、古代の官衙(役所)跡の発掘調査が注目を集めている。文字資料に記録された施設名と、遺構や出土遺物の詳細な分析を通じて、この地域が古代九州を統括した大宰府の重要な交通・物流の拠点であったことが次第に明らかになってきた。

阿恵官衙遺跡で確認された政庁跡と倉庫群

福岡市のベッドタウンとして発展する福岡県粕屋町。須恵川右岸に広がる微高地には、古代の糟屋郡の役所跡である阿恵遺跡群が存在する。この一帯は九州大学の農場として利用されていたため、開発を免れており、2013年から町教育委員会による発掘調査が継続されている。

調査では、「コ」の字形に配置された長辺40メートル以上の大型建物跡や、1辺4~8メートルの建物跡15棟などが発見された。前者は政務や儀式を行う政庁、後者は租税として納められたコメなどを収蔵する正倉(倉庫)の遺構と見られ、飛鳥時代の7世紀後半から奈良時代の8世紀にかけて営まれたものだ。さらに、遺跡を横断する幅21メートルの道路跡も確認されており、当時の交通網の広がりを示唆している。

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梵鐘の銘文から読み解く地方行政の変遷

京都・妙心寺に所蔵される国宝の梵鐘には、「糟屋評造舂米連広国」という銘文が刻まれている。これは当時の糟屋郡のトップ(評造)の名を記したもので、地方行政単位の郡が701年の大宝律令以前は「評」と表記されていたことを裏付けている。銘文にある鐘の鋳造年「戊戌年」は698年と推定され、この政庁跡で舂米連広国が政務を行っていた可能性が高い。

調査を担当する西垣彰博・社会教育課主幹は、「評から郡への移行期における地方官衙の変遷を追跡できる貴重な遺跡」と指摘し、2020年に阿恵官衙遺跡として国史跡に指定された経緯を説明する。

夷守駅家跡と推定される内橋坪見遺跡

阿恵遺跡群から約700メートル北に位置する内橋坪見遺跡では、12~13年の発掘調査で、長辺20メートルを超える7世紀末から8世紀前半の大型建物跡が確認された。朱塗りの柱を示す赤色顔料や大宰府式鬼瓦の出土、さらに大宰府と都を結ぶ駅路(幹線道路)の推定ルートに接し、博多湾の志賀島を望む立地から、万葉集に登場する「夷守駅家」の跡と見られている。

万葉集には、天平2年(730年)に都に戻る使者を送る宴が夷守駅家で催された際、大宰府の役人が詠んだ歌が収録されている。この歌は、志賀島を望む浜辺をともに歩いた別れの名残惜しさを表現しており、当時の交通・物流拠点としての賑わいを彷彿とさせる。

出土遺物から見える古代の物流ネットワーク

大宰府政庁跡から出土した木簡には、「贄驛」や「鯖」などの文字が記されており、食料や物資の流通を管理していた痕跡が窺える。これらの発見は、糟屋郡が大宰府の重要な物流ハブとして機能し、九州全域の統治に不可欠な役割を果たしていたことを裏付けている。

発掘調査の進展により、古代の糟屋郡が単なる地方行政の中心ではなく、広範な交通・物流ネットワークの中核を担っていた実態が浮かび上がってきた。今後の分析がさらに深まることで、古代日本の地方統治と経済活動の詳細が明らかになることが期待される。

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