ハンセン病療養所で表現し続けた女性画家 加藤博子さんの作品展から見える人生
ハンセン病療養所で表現し続けた女性画家 加藤博子さんの作品展

展示を見て、時に激しさも見せた博子さんの生き方が分かった気がした。国立ハンセン病資料館(東京都東村山市)で開催中の「絵と編み物でみる 加藤博子の作品世界」展に足を運んだ。

静岡県のハンセン病療養所で暮らす加藤博子さんと私が知り合ったのは20年ほど前。だが、コロナ禍で会う機会が途絶えたまま、博子さんは昨年12月に岡山県の療養所で亡くなった。会場に展示された絵画や、生活の手段でもあった編み物には、過酷な人生と格闘し、常に表現は手放さなかった人生が刻まれている。

絵を通して「人間の本質」を知りたい

博子さんは1943年2月、中部地方で生まれ、12歳で静岡県御殿場市の駿河療養所に入った。詳しい出身地は公表していない。絵を本格的に始めたのは高校時代。長島愛生園(岡山県)にあった、全国唯一のハンセン病者のための高校に進学した際、母親にねだったのが油絵の道具だった。

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長島から見た夜の瀬戸内海を描いたと思われる《海》は、19歳の頃に岡山県展で入選した作品。厚く塗り重ねた黒い画面に目を凝らすと、水平線、雲や波の表情が明暗と絵の具の凹凸によって表現されている。担当学芸員の吉國元さんは、「絵の具に砂を混ぜるなど現代的な作品で、早熟な才能が発揮されています」と語る。

博子さんは高校を卒業する時、絵に対する情熱をこうつづっている。「入学当時、ただ『好き』それのみだった美術が、私の中に大きい存在を示してくるようになった。深く追求したい。それを通して、人生の姿、人間の本質、虚飾の虚しさを知りたい」

編み物に刻まれた「生きた証し」

博子さんは、駿河療養所で出会った健さんと1964年に結婚。健さんが日中は療養所の外で働く生活を送った後、2人は1974年に「社会復帰」に踏み切る。この時期のハンセン病療養所では、社会復帰、つまり療養所を退所することが大きなテーマだった。背景には、戦後に治療法が確立して「不治の病」ではなくなったこと、日本国憲法により基本的人権が保証されたことがある。

美大進学の夢もあった博子さんだが、経済的自立のために絵を中断。編み物を習得し、社会復帰後は自分の教室を開いた。オリジナルのニット作品でファッション誌の表紙を飾ったこともある。

なぜ編み物だったのか。博子さんは「手指の障害と貧しさ」を理由に挙げている。貧しさとは、画材に費用のかかる油絵とは違って、失敗してもほどいて編み直せることも意味していた。吉國さんは今回の展覧会で、編み物も博子さんの創作活動の一環として位置付けている。

「彼女にとって編み物は生活のためのものだったと思います。でも、そこには生きた証しが刻印されていると考えました」と吉國さん。例えば、《午後の情景》(1980年代)と題したセーター。対になる《夜の情景》(同)では、単に暗転させるだけでなく、風景を90度回転させた点に「実験精神が表れている」という。さまざまな編み方の例をメモとともにまとめた見本帳やスケッチなどにも「絵を続けてきた彼女らしさ、試行錯誤と鍛錬の跡が見て取れる」という。

やがて健さんのぜんそくが悪化。2人は1988年に駿河療養所に戻る。博子さんと健さんの社会復帰は15年で終わった。

「私の切なさが分かるか」

私が知人に誘われて駿河療養所に通い始めたのは、大学生だった2001年。はっきり覚えていないが、その数年後には博子さんと出会っていたと思う。私から見た博子さんは、多弁で頭の回転が速く、はっきりと自分の主張をする入所者だった。納得できないことがあれば、療養所の医師や職員も臆せずに批判する。それだけに、療養所内でのあつれきも何度か見聞きした。

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また、ハンセン病の隔離政策の違憲性を巡り、2001年に国が敗訴、謝罪した国家賠償請求訴訟の原告団の一人でもある。国立ハンセン病資料館の活動についても、厳しい目で見ていた。ハスをテーマに写真を撮り続けている健さんと合わせ、駿河療養所の中でも異彩を放つ夫婦だった。

吉國さんの場合、初めて博子さんに接したのはコロナ禍のただ中だった。オンライン通話の画面越しで、多摩美術大出身だと自己紹介する吉國さんに、博子さんは再入所の後に描いた風景画を見せ、「自分も本当は美大に行きたかった」「私の切なさが分かるか」と突きつけたという。「ハンセン病の人生被害とはこのような形でも表れるのだ、と感じました」と吉國さんは振り返る。

「絵はふるさと」という言葉の重み

また博子さんという存在は、療養所で女性が絵を描き続けたことの意味を吉國さんに考えさせたという。「2024年に多磨全生園の入所者による絵画を振り返る企画展を担当したのですが、そこに登場した女性入所者は100年間でたった1人でした。博子さんは描くために闘ってきた人なのだ、としみじみ感じました」

仕事や家庭を通じた自己実現が制限された療養所では、入所者たちは絵画の他にも小説、詩歌、写真など、さまざまな表現に取り組んだことが知られている。だが、「文化活動も園内作業も、男性と女性でジェンダー化されていた」と吉國さん。絵画が男性を中心に展開された一方、女性には家事などの役割が期待された。その中で博子さんが絵にこだわり続けることは、容易ではなかったはずだ。

博子さんは2009年、生前唯一の個展を東京で開く。その案内はがきには、「絵はふるさと」と記されていたという。吉國さん自身、学芸員の仕事と並行して画家としても活動している。「絵はふるさと、とまで言い切れる人は美大でもなかなかいません。博子さんはハンセン病で戻るべき場所を失い、だからこそ絵を描き、それが自分の場所だった。そんな実感が込められている言葉です」

今思えば、博子さんのあの激しさは、表現者としての芯の強さと結びついていたのかもしれない。

「いつの世も生きるのはしんどいね」

展示品の一つ、紫色の毛糸で編んだチュニックに私は見覚えがあった。生前の博子さんがそのチュニックを着ていたことを思い出した。2012年、ハンセン病歌人の明石海人とその家族について取材していた私は、博子さんの自室を訪ねた。博子さんが「梅林加津」のペンネームで、『海人断想』(皓星社)という海人についてのエッセーを出版していたからだ。

博子さんは海人について、同じハンセン病というだけではない強い関心を持っていた。海人が、療養所に近い静岡県沼津市の出身であること。海人は晩年に精神を病んだとされ、博子さんも長くうつ病と付き合っていること。そして、海人も絵を描き、博子さんも短歌を詠むこと。そんな視点から博子さんは海人の歌を読み解き、さまざまな問いに答えてくれた。だが、「ハンセン病の人が書いた本だ、という先入観では読まれたくないから」と、自分が著者だと明かすことだけは頑なに拒んだ。

ハンセン病当事者という肩書ではなく、歌論そのもので勝負したい。表現者としての自負を感じた。その2年後に出た『増補版 海人断想』で、著者が国賠訴訟の原告だ、ということまでは明かされた。博子さんから私の元に届いた1冊には、こんな手書きのメモが挟んであった。「弱者のいきれる社会はみんなの生きれる社会 ささやかに希いました」「all カミングアウトしてません」「いつの世も生きるのはしんどいね」

結局、梅林加津は自分だ、と博子さんが公表したのは2017年だった。時間の経過とともに、どんな心境の変化があったのだろう。もう一度じっくり話してみたかった。

半世紀連れ添った健さんを2022年に亡くした後、博子さんは高校時代を過ごした長島にあるもう一つの療養所、邑久光明園(岡山県)に転園した。2025年12月2日、82歳で亡くなった。邑久光明園社会交流会館の学芸員、キムラタダシさんによると「博子さんは自分が残した作品群について、最期まで気にかけていた」という。

「絵と編み物でみる 加藤博子の作品世界」展

会期は6月7日まで、国立ハンセン病資料館2階の企画展示室で。隣の図書室でも著書などの関連展示がある。入場無料。月曜休館。5月17日には吉國さんの講演「存在の証明に向かって 加藤博子の活動と作品」(事前申し込み制)が、6月7日にはギャラリートーク(申し込み不要)がある。いずれも午後2時から。