燻蒸に代わる新たな文化財保護手法「IPM」が全国で注目
古文書や絵巻、歴史的な工芸品を食い荒らす「文化財害虫」。従来、これらの駆除には薬剤を用いた「燻蒸(くんじょう)」が広く用いられてきたが、環境や人体への影響が懸念され、主要な薬剤の使用が相次いで禁止されている。持続可能な文化財保存の実現に向けて、私たちはどのような取り組みが可能なのか。その未来を展望する。
燻蒸からIPMへ:博物館の保存管理が転換期に
愛知県豊田市に2024年に開館した豊田市博物館は、世界的建築家・坂茂氏が設計した自然光溢れる空間に、地域の農機具や祭具、古文書、標本など多様な資料を展示している。紙や繊維、植物など虫やカビに弱い自然素材の資料も多く、従来ならば燻蒸による駆除が一般的だった。
燻蒸は密閉空間に薬剤ガスを充満させ、文化財に付着した害虫やカビを一括駆除する方法で、1960年代から効果的かつ効率的な対策として普及。しかし、2005年にオゾン層破壊物質「臭化メチル」が禁止され、昨年3月には代替薬剤も温室効果ガスや発がん性物質を含むとして販売終了。全国の博物館や美術館は危機感を強め、新たな手法の模索を迫られている。
豊田市博物館の村田真宏館長は「開館当初から燻蒸中心の管理は想定していなかった」と明かす。同規模の施設には燻蒸庫を設置する例もあるが、同館にはその設備がない。代わりに導入したのが「IPM(総合的有害生物管理)」だ。
市民ボランティアが支えるIPMの実践
IPMは化学物質だけに依存せず、清掃、温湿度管理、トラップ(捕獲器)などを組み合わせ、害虫やカビの被害を予防する保存管理手法。農業分野で発展したが、環境負荷の低さから文化財保護でも注目が高まっている。
豊田市博物館のIPMの特徴は、市民ボランティアグループ「とよはくパートナー」の積極的な関わりにある。約160人のメンバーのうち、約30人で構成される「環境維持グループ」が月1回、館内で虫やカビの調査、トラップの交換を実施。文化財害虫を発見した場合は、顕微鏡や図鑑で種類を特定し、学芸員に報告する。
村田館長は「発見を担うのがボランティア、データに基づく対策を講じるのが館の役割」と説明。展示解説や教育活動をボランティアが支える例は増えているが、収蔵品保存に携わるのは珍しい。メンバーは「自宅の清掃と同じ感覚でできる」と語り、専門知識が不要なアナログな手法がIPMの実践を可能にしている。
持続可能な文化財保護の未来に向けて
IPMも万能ではない。災害などをきっかけに害虫やカビが発生することはあり、駆除には二酸化炭素処理や温度調整などの方法も併用される。燻蒸に比べ即効性は低いが、東京文化財研究所の佐藤嘉則生物科学研究室長は「IPMは被害を最小限に抑えることを目指し、複数対策の組み合わせで高い効果が期待できる」と指摘する。
地震や水害、気候変動、エネルギー価格高騰など、文化財保存を取り巻く環境は厳しさを増している。2022年に国内初確認され、全国で急拡大する文化財害虫「ニュウハクシドミ」の対策も喫緊の課題だ。一度失われたら再生できない文化財を守りつつ、環境破壊を招かないバランスが求められる。
博物館や美術館は展示だけでなく、地域の財産を保全・管理する施設でもある。IPMへの市民参加は、文化遺産への理解を深め、地域交流を生むきっかけとなる。特に災害時には、被災文化財の救出に地域の支援が不可欠だ。
利用者を含む市民全体が文化財保存への意識を変え、環境に配慮した未来への継承を目指すことが重要である。持続可能な文化財保護は、専門家と市民の協働によって実現可能な未来像と言えるだろう。



