スモーキングルーム 第247回 千早茜
「昨日、街へ行ったんだ。懐かしい路面電車に乗ったよ。動いているんだな。街はずいぶん壊れてしまっていたけど、面影はあった。僕らが追いだされた部屋があった建物は残っていた。でも、見知らぬ人が住んでいて、同じ建物内にあった、妹を匿ってくれた老夫婦の部屋も違う人が暮らしていた。どちらも頼んで中に入れてもらったけれど、僕らの痕跡はなにもなかった。家族の、母の、父の、妹の、髪の毛一本でもいいから欲しかったんだ」
鳥の巣は湖の方へ視線を遣った。目をすがめて光を散らす木々を眺める。
「この景色が綺麗なものだということはわかる。でも、感じないんだ。ぜんぶ奪われてしまった。見えているのに見ない方法を、聞こえているのに耳を塞ぐ方法を、心を消す方法を獲得しなくては生き延びられなかった。そうしているうちに、苦痛を感じることさえ奪われてしまった。今、僕は本当に存在している? 何度も繰り返した夢の中にいるみたいだ。見えているのに、聞こえているのに、なにも感情に触れない。あそこに心臓を置いてきてしまったのかもしれない」
「鳥の巣」と金ボタンは顔を覗き込んだ。懐かしい瞳の色があった。妹とは似ていないと思っていたが瞳の色は同じだったんだなと、金ボタンは思った。
「お前にまた会えて、俺は嬉しいよ。焦ることはない。少し部屋で休んできたらどうだ」
鳥の巣はテーブルに置かれたホテルの鍵を見つめた。鍵に彫られた部屋番号を呟く。
「そうだ」と金ボタンは煙に言われたことを思いだした。「お前がいた隠し部屋は埋めたよ。戦争は終わった。もう必要ないからな」
隠し部屋の存在を知った者にはそう伝えるように言われていた。一部の特別室を除いた客室の造りはほぼ同じで、階によって壁紙などは違うが、部屋番号を変えてしまえば従業員以外は部屋の区別はつかなくなってしまう。
「そう、なのか」と鳥の巣は虚ろな表情で言った。
「ああ、もう逃げも隠れもしなくていい。ここにいる間はゆっくり寛いでくれ」
鳥の巣はそっと鍵を手に取った。番号の溝を枯れた指でなぞり、「僕にも番号がついていた」と六桁の数字を繰り返した。「忘れられないんだ」
その数日後、従業員の間で心臓を求めて彷徨い歩く幽霊の噂話が語られるようになった。



