太平洋戦争末期の沖縄戦で命を落とした旧日本兵の筆箱の一部とみられる遺留品が、北海道の遺族に返還された。沖縄本島南部の壕で発見したNPO法人が筆箱に刻まれた氏名をもとに遺族を捜し出し、返還につながった。戦後81年となる中、遺品が遺族に返還されるケースは珍しい。
「都築忠夫」の文字が刻まれた遺留品
「長い間ご苦労さまでした。古里に帰ってこられてよかった」――札幌市の都築利雄さん(87)は4月中旬、自宅で遺留品のかけらを手に、しみじみとつぶやいた。手のひらほどの大きさの破片には、細い線で「都築忠夫」と刻まれている。都築さんにとって、忠夫さんは父・秀雄さん(1982年に死去)の弟にあたる。
都築さんが6歳の頃、自宅に忠夫さんの戦死の知らせが届いた。白い布に包まれた木箱を秀雄さんが開けると、遺骨ではなく石が一つ入っていた。「命と石ころは同じ価値なのか。これが戦争か」。都築さんは幼心に無力感を抱いたという。
遺留品発見の経緯
遺留品は昨年8月、遺骨収集活動を行うNPO法人「空援隊」が、沖縄戦最後の激戦地・沖縄県糸満市にある旧日本陸軍が陣地としていた壕(全長約160メートル)で発見した。同法人は、材質や形状から当時使用されていた筆箱のふたとみている。
同じ場所からは、日本軍兵士の身分証で、所属部隊などを示す認識票も見つかった。認識票には、沖縄戦で指揮を執った第32軍司令部傘下の第24師団歩兵第32連隊を指す「山三四七五」の文字が刻まれており、同法人によると、忠夫さんが同連隊に所属していた可能性があるという。
連隊の歴史と戦闘
糸満市史などによると、同連隊は山形県や北海道の出身者で編成され、壕の周辺地域にも配備された。近くには同連隊の終焉を伝える石碑が立つ。同連隊は米軍が「ありったけの地獄を一つにまとめた」と表現した激戦地・前田高地(現在の浦添市)での戦闘にも参戦。南部に撤退し、組織的戦闘の終結後も戦い続け、武装解除したのは終戦後の45年8月下旬だった。同連隊に所属した兵士約3000人のうち、約9割が戦死したとされる。
「叔父が亡くなった事実を実感」
同法人によると、激しい地上戦が繰り広げられた沖縄では、兵士や住民が身を潜めた壕などで遺骨や不発弾、陶器やガラスの破片などが見つかることはあるが、氏名が記載された遺留品の発見は近年珍しく、同法人は氏名をもとに、あるべき場所に返そうと遺族捜しに奔走。沖縄戦に関する戦没者のデータベースを確認したり、各地の護国神社や自治体などに問い合わせたりするなどして、遺族を特定した。



