震災から15年、双葉町避難者が語る原発再稼働への不安と加須での生活
東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故から間もなく15年を迎える。この節目を前に、原発が立地する福島県双葉町から埼玉県加須市に集団で避難してきた人々が、東京電力による柏崎刈羽原子力発電所(新潟県)の再稼働に対して、複雑な心境を抱えている。彼らは「便利な加須の暮らしには慣れたけれど、再稼働はやはり心配だ」と口を揃える。避難者たちは市内の支援者の自宅で定期的に開かれる昼食会に集い、率直な思いを語り合った。
「東電がもう事故を起こさないとは思えない」81歳女性の本音
宗像勝子さん(81)は、不安げな表情を浮かべながら語る。「できれば再稼働してほしくない。東電がもう事故を起こさないとは思えず、半信半疑な気持ちです」。地震に伴う津波により、海岸の堤防近くにあった自宅は跡形もなく流されてしまった。家族は無事だったが、自宅跡地は危険で再建できない状態だ。「福島県内にいる3人の孫に頻繁に会いたいが、帰りたくても帰れない。原発も津波も仕方ないと受け止めている」と、複雑な胸中を明かした。
中間貯蔵施設敷地内にあった自宅、戻れない現実
佐藤富士子さん(64)の自宅は、放射性廃棄物や除染土を保管する中間貯蔵施設の敷地内にあった。「もう戻れない。原発事故で人生が変わったが、再稼働はどうしようもない。加須は便利でいい所だけれど」と苦笑いを浮かべる。事故によって故郷を失い、新たな土地での生活を余儀なくされた現実が、彼女の言葉ににじみ出ている。
「隠さずきちんと公表してほしい」東電への注文
舛倉敏江さん(73)は、東京電力に対して明確な注文を付ける。「東電は(トラブルなどを)隠さないで、きちんと公表してほしい」。東電は事故当初、「炉心溶融(メルトダウン)」という言葉を使用せず、2016年に隠蔽だったと認めた経緯がある。事故前にも福島県や新潟県の原発でのトラブル隠しが発覚しており、信頼回復への道のりは依然として遠い。
15年にわたる支援活動、富沢トシ子さんの取り組み
2月末のこの日、5人の避難者が加須市で15年にわたり支援活動を続ける富沢トシ子さん(80)の自宅に集まった。5人とも住民票は双葉町のままである。料理が得意な富沢さんは、事故前から加須市で高齢者向けに食事を提供するボランティア団体「加須ふれあいセンター」を運営していた。
2011年3月の事故発生後、旧県立騎西高校(同市)の校舎に集団避難した人々への支援を開始。2012年にはセンターを同校近くに移して低額の交流食堂を開き、双葉町にも十数回足を運んだ。2014年にはセンターをNPO法人化したが、2021年3月に資金不足やコロナ禍の影響により解散を余儀なくされた。
「加須ふれあいみんなの家」としての継続的な支援
それでも富沢さんは、同年4月から自宅を個人的に「加須ふれあいみんなの家」として開放。訪れる避難者も食材を持ち寄るなど協力して昼食会を毎月続け、多いときは十数人が集まる。富沢さんは振り返る。「避難者の中には亡くなった方もいて寂しいが、加須の住民とのつながりができた。15年も続いたのは避難者や加須の方々の協力もあったから」。今後も体が動く限り、支援を続ける考えだ。
避難者たちの現在地と未来への思い
避難者たちは、加須市での生活に一定の安定を見出しているものの、原発再稼働への不安は消えない。彼らは、便利な都市生活と故郷への未練、そして再び起こりうる事故への恐れの間で揺れ動いている。15年の歳月が経過しても、原発事故の傷痕は深く、人々の心に刻まれ続けている。地域の絆と相互支援が、こうした困難な状況を支える重要な役割を果たしていることは間違いない。
