無国籍のまま28年の人生を閉じた男性の苦悩
三重県内の公営住宅。4畳半の和室の一角に飾られた遺影の中の松田謙さん(仮名、28歳)は笑っていた。突然の死から2カ月が経った頃、記者は彼が父忠彦さん(72歳、仮名)と母ジュリアさん(55歳、仮名)と暮らしたこの家を訪ねた。
「ずっと死にたい」と綴った遺書の重み
謙さんの3畳の部屋には、服を掛けるラックとベッドだけが残されていた。きちんと畳まれた布団が、彼の几帳面な性格を物語っている。位牌に手を合わせた忠彦さんは、台所を指して「この前もその辺にいてね」と呟いた。炒め物やチャーハンをよく作っていたという謙さんの幻影が、今も蘇るという。
記者が謙さんの存在を知ったのは、彼が亡くなる1年近く前の2024年秋。ボランティア関係の取材先で「無国籍で学校にも行っていなかった子がいる」と耳にした。小中学校に通わず、無国籍というにわかに信じ難い情報に、取材を申し込んだが、当初は「在留資格の更新が済んだら」との返事で待つことになった。
政治的な空気が取材を阻む
しかし、更新後の2025年7月頃に再び取材を申し込むと、「今はタイミングが悪い」という答えが返ってきた。当時は参院選の真っ只中で、「日本人ファースト」「外国人政策の厳格化」という言葉が飛び交っていた。無国籍だった謙さんの存在が注目を浴び、予期せぬ誹謗中傷を受けることを、関係者が懸念したらしい。
記者は謙さんと直接言葉を交わしたことはなかったが、役所などで何度か目にしていた。ある時、彼がアルバイトをしていた飲食チェーン店を訪れた際、くしゃみが止まらなくなった記者に、そっとティッシュペーパーを渡してくれた。その気の利いた対応は、学校に通ったことがなく社会経験が乏しいとは思えないものだった。
在留資格切れが招いた「書類上存在しない子ども」
フィリピン出身の母ジュリアさんは、10人きょうだいの末っ子。1980年代半ば、10代で出稼ぎのため興行ビザで来日した。横浜市などで働いた後、三重県に移り住み、日本人の前夫と結婚したが、4年ほどで離婚することになった。
帰国費用をためるためにスナックでアルバイトをしていた頃、客として来店した県南部出身の忠彦さんと出会い、ほどなくして一緒に暮らし始めた。しかし、この頃ジュリアさんの在留資格は期限切れとなっていた。更新手続きが必要なことを「忘れていた」という。
「強制送還」の恐怖が行政手続きを阻む
「不法滞在」という4文字が2人の生活に影を落とすようになった。同じ頃、謙さんを妊娠していることが分かった。転居などで在日フィリピン人コミュニティーとは疎遠となり、頼れる人はいなかった。
本来なら役所に謙さんの出生届を提出し、さらにフィリピン領事館にも出生登録をしなければならなかった。しかし、役所や領事館に行けば、ジュリアさんには在留資格がないことが発覚し「強制送還されるのでは」という恐怖が両親の足を遠のかせた。
その結果、謙さんは出生届のない無国籍児、つまり「書類上は存在しない子ども」になってしまった。
複雑な法的状況が国籍取得を困難に
フィリピンはカトリック教徒が多く、離婚が事実上不可能な国だ。ジュリアさんは前夫と日本の法律上は離婚していても、母国では婚姻関係が継続した状態だった。そのため、仮に出生届を出しても、謙さんは日本国籍取得につながる「忠彦さんとの夫婦の子」とはなりえなかった。
忠彦さんが謙さんを非嫡出子として認知するために必要な、ジュリアさんの独身証明書も、同じ理由で取れる見込みはなかった。とはいえ、2人が行政手続きをしていれば、謙さんはフィリピン国籍を取得でき、希望すれば日本の小中学校に、日本国籍の子どもと同じように通えたはずだ。
「全部、僕の責任」と悔恨の父
「国籍については全部、僕の責任。頭の中には不法滞在と強制送還しかなかった。彼女と離れたくなかった。でも仕事の休みは月に1回しかない。もう少し真剣に動いていたら…。何でも役所に相談すればよかった」。
忠彦さんは声を詰まらせて、悔恨の念を口にした。無国籍だったことへの苦しさがつづられた謙さんの遺書。両親は今でもふと読み返すという。取材中、撮影のため母親にそのノートを差し出すと、すぐに手放して顔を背け、両手で目元を覆った。
謙さんの遺書には「ずっと死にたい」という言葉が綴られていた。学校にも通えず、無国籍として生きる苦悩が、28年の人生を閉じる選択へと追い詰めたのか。両親の「強制送還」への恐怖が、子どもの未来を奪ってしまったこの悲劇は、在留資格制度と家族の在り方について深く考えさせる。



