「博物館の父」田中芳男の功績、今も飯田市に息づく 信州の館を訪ねて
「博物館の父」田中芳男の功績、今も飯田市に

「博物館の父」田中芳男 その功績は今も飯田市の街に

初夏の行楽シーズンを迎え、信州人が関わってきた博物館、美術館、資料館を紹介する連載「美と博覧 信州の館を訪ねて」の第1回は、「博物館の父」と呼ばれる田中芳男(1838~1916年)を取り上げる。彼の功績は、故郷・長野県飯田市の街に今も色濃く残っている。

4月末の東京・上野公園は木漏れ日の中、観光客でにぎわう。その一角にある東京国立博物館や上野動物園の誕生の背景に、一人の信州人がいたことはあまり知られていない。田中芳男は1838年(天保9年)、飯田町(現飯田市)に生まれた植物学者で、「博物館の父」として知られる。彼の胸像は、上野公園内の国立科学博物館地下ラウンジの奥にひっそりと置かれている。

田中が生きたのは、封建制から市民社会へと移り変わる激動の時代だった。初めは幕府、次いで明治新政府に仕え、各地の博物館、動物園、図書館の創設に尽力した。1872年には湯島聖堂大成殿で湯島聖堂博覧会を開催。1877年には第1回内国勧業博覧会を成功させ、会場となった上野に、博物館、動物園、植物園を含む日本初の博物館計画を構想した。

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学問の素養は飯田の風土が育んだ

学者としての素養や官吏としての才能は、どのように育まれたのか。田中の実家は医業を営んでいた。18歳で尾張藩(名古屋)に修行に出て、蘭方医で植物学者の伊藤圭介のもとで医学を学ぶ一方、植物や鉱物を専門とする本草学に没頭した。田中は医学よりも「従」とされた自然界の事象に目を向けた。

飯田市美術博物館の織田顕行さん(53)は、「田中は近くに住む役人の家に頻繁に出入りし、そこで本草学の手ほどきを受けたであろう」と分析する。「飯田が学問や文化を特に重視する土地柄だったからこそだ」と、幕末の飯田の風土が田中の学問的志向に大きな影響を与えたと見る。

名古屋での修行を経て江戸に向かった田中は、幕府の洋学研究機関「蕃書調所」の役人となった。幕末の混乱期にも政争に加わらず、研究や調査に没頭。海外から送られたリンゴの接ぎ木を日本で初めて成功させたり、ビワやハクサイなどの栽培を実現したりした。1867年には幕府の使節としてパリ万国博覧会に参加した。

明治政府でも重用され、政治家へ

明治に改元後も、幕府時代と同様に新政府に重用された。1873年のウィーン万博では実務のトップとして日本の美術工芸品をアピールし、社会の近代化に努めた。50代以降は政治家に転身し、元老院議官や貴族院議員として議会から博物館設立の建白書を提出するなど、77歳で亡くなるまで後方からの支援や提言を続けた。

明治に入り学問が細分化される中で、田中の「博物学」の知識は時代遅れと見なされる向きもあった。また、その功績にもかかわらず、各施設の館長などの役職には就かなかった。それでも長年の実学・実務的な功績が認められ、一代で男爵の爵位を授与され、旧藩主らと並ぶ地位を得た。

「人たるものは世の中に生まれ出たからには、自分相応な仕事をし、世用をなさなければならぬ」。田中が数え76歳のときの講演で、亡父の言葉を引いて「田中芳男の一生涯の精神となりました」と回顧している。

故郷・飯田市に残る功績の形

飯田市の田中の生家近くには現在、「りんご並木」が観光名所となり、田中の顕彰碑が立つ。市立動物園や市美術博物館も徒歩数分の距離にある。田中はこれらの施設の創立に直接関わっていないものの、その生涯の功績は故郷の街の形となって今に残っている。

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市美術博物館では、5月18日を「田中芳男と国際博物館の日」と定め、田中に関連する展示や見学会、子ども向けイベントを実施し、当日は入館無料とする予定。10月には生誕110年を記念した企画展も開催される。(池山航一郎)