DJ OSSHYの東京物語:音楽に捧げた青春の軌跡
渋谷の伝説的なディスコ「キャンディ・キャンディ」でDJとして認められた後、立教大学に進学した私の音楽活動はさらに加速しました。渋谷エリアに点在するDJブース付きのパブやプールバーで、毎日のようにレコードを回す日々が続きました。「キャンキャン出身」という肩書は強力な“看板”となり、新しい場所でもすぐにDJとして迎え入れてもらえることが多かったのです。
当時はテニスや“陸サーファー”と呼ばれる擬似サーフィンなど、様々な流行にも手を出しましたが、私の音楽の軸は常にディスコ音楽と洋楽ポップスにありました。レコード店を巡っては新譜を買い集め、自作のカセットテープを作成して友人たちに配布する——そんな音楽に没頭した青春時代を過ごしていました。
FM横浜との出会いと転職への道
その頃、新たに開局したFM横浜の番組「MARUI24CLUB」に大きな衝撃を受けました。ノンストップで流れるディスコ音楽、そしてそのミックスを手がけていたのは、私をDJの世界に導いてくれたモンチ田中さんが率いる「M・I・D」チームだったのです。
「いつかこのラジオ局で自分も番組を作りたい」——その強い思いから、ラジオ局への就職を志望しました。しかし当時は採用枠がなく、まずは日本橋の広告代理店に入社することになりました。配属されたのはラジオ媒体部で、全国のラジオ局を担当する業務に就きました。
3年後、ついにFM横浜の中途募集の情報を入手し、憧れていた転職を実現させることができました。念願のラジオ局での仕事が始まったのです。
二刀流生活と音楽シーンの変遷
30代は横浜での生活を中心に過ごしました。東京生まれではありましたが、感覚的にはすっかり“ハマッ子”になっていました。昼間はラジオ局員として働き、夜はDJとして活動する——まさに二刀流の生活を送っていました。
しかし1990年代はディスコの暗黒期とも呼ばれる時代でした。従来のディスコはクラブへと変貌を遂げ、音楽ジャンルの特化が進んでいったのです。私はこの変化に対応するため、リズム・アンド・ブルースとヒップホップに特化したプレイスタイルへと転換。かつてのディスコスタイルを一時的に封印し、新たな音楽の道を模索しました。
横浜を拠点としながらも、西麻布、六本木、青山といった東京の主要クラブを舞台に、不眠不休で音楽活動を続けました。当時のクラブシーンはエネルギーに満ちており、新しい音楽の潮流が生まれつつあることを肌で感じられる時代でした。
こうして、渋谷のディスコから始まった私の音楽人生は、FM横浜でのラジオ仕事と並行しながら、1990年代のクラブシーンを駆け抜けることになったのです。音楽への情熱が、常に私の人生の中心にあり続けた青春時代の貴重な経験となりました。



