山崎合戦で秀吉「遅参」説浮上 天下分け目の天王山、新史料が示す真実
秀吉は山崎合戦に遅れた? 中京大教授が新説を提唱

天下分け目の合戦で秀吉「遅参」の可能性 新史料が歴史の定説に疑問

天正10年(1582年)6月13日夕方、京都府大山崎町で行われた山崎合戦は、羽柴(豊臣)秀吉が明智光秀を破り、織田信長の仇討ちを果たした天下分け目の戦いとして知られる。しかし近年、この合戦に秀吉が間に合わず「遅参」していた可能性を示す新説が注目を集めている。

合戦当日の書状が示す意外な事実

中京大学文学部の馬部隆弘教授(日本中近世史)は一昨年、古書店から山崎合戦当日である6月13日に記された秀吉の書状を入手した。この書状は姫路城を守る配下の武将あてに書かれたもので、城の修復を命じるとともに「明日西岡に出陣する」と記されている。

西岡地域には光秀方の勝龍寺城(京都府長岡京市)があり、織田家臣の池田恒興らが合戦前日の12日に光秀をこの城に追い込んでいた。馬部教授は「この書状から判断すると、秀吉は決戦が山崎ではなく、翌日の勝龍寺城攻めだと考えていた可能性が高い」と指摘する。

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光秀の予期せぬ行動と秀吉のタイミング

しかし実際には、光秀は13日に勝龍寺城から打って出て池田勢らに敗北。城に戻ったもののその夜に城を脱出し、逃走中に落ち武者狩りによる襲撃で非業の死を遂げている。

馬部教授の分析によれば、秀吉の書状は山崎から約12キロ離れた富田(大阪府高槻市)の陣中で日中に書かれたとみられる。「書状を出した直後に光秀の出撃を知り、急いで準備を整えたとしても、夕刻に始まった山崎での合戦に間に合わせるのは極めて困難だったでしょう」と教授は説明する。

実際、宣教師ルイス・フロイスの記録などにも、秀吉の到着が遅れた可能性を示唆する記述が残されている。

歴史認識の再考を促す新解釈

山崎合戦はかつて「天王山の戦い」とも呼ばれ、重要な勝負の局面の代名詞として現代でも広く用いられている。本能寺の変からわずか11日後に起こったこの合戦で、秀吉が「中国大返し」と呼ばれる強行軍で畿内に戻り、光秀を討ったという従来の物語は、日本史の重要な転換点として語り継がれてきた。

しかし馬部教授の新説は、この定説に再考を促すものだ。「秀吉が事実を隠した可能性も考えられます。自らが到着する前に戦いが決着していたとなれば、天下人としての威信に関わる問題ですから」と教授は推測する。

この新説は、単なる合戦のタイミングの問題を超えて、戦国時代の情報伝達の速度、武将たちの戦略判断、そして歴史がどのように記録され伝えられてきたかについて、新たな視点を提供している。史料の再検証を通じて、我々が知っている「歴史」が常に更新され得ることを示す好例と言えるだろう。

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