巨人の黄金時代に立ち向かった中日ドラゴンズの挑戦
昭和49年、1974年のプロ野球界は、読売巨人軍が9年にわたり日本一に君臨する「球界の盟主」として圧倒的な存在感を示していた。その巨人軍に敢然と立ち向かったのが、中日ドラゴンズである。この年、球団創設90周年を迎える中日は、20年ぶりのリーグ優勝という偉業を成し遂げ、球界の勢力図を塗り替える歴史的瞬間を迎えることとなる。
投手陣の屋台骨を支えた星野仙一の存在
当時入団2年目、20歳の鈴木孝政選手は、チームのエースとして活躍した星野仙一投手をこう振り返る。「星野仙一さんは、みんなのよりどころであり、守り札のような人だったよ。投げること以上の力があった人だったと思う。何かあったら『仙さんに頼め』みたいな。みんなの逃げ場所だもん。駆け込み寺みたいな役割を果たしていたよね」
このシーズン、星野は49試合に登板し15勝9敗を記録。先発、救援とフル回転で投手陣を支え、10セーブを挙げて初代セーブ王のタイトルを獲得。さらに沢村賞にも輝くなど、まさに中日投手陣の屋台骨としての役割を全うした。
マジック2で迎えた決戦のダブルヘッダー
10月12日、マジック2で迎えた大洋ホエールズとのダブルヘッダーは、中日の優勝を決定づける歴史的な一日となった。第1試合では松本幸行投手が完投し9-2で勝利、自身20勝目を挙げた。
そして第2試合の先発には、当然のようにエースの星野仙一がマウンドに立った。試合は中日がリードを保ち、九回二死、109球目。星野は山下大輔打者を三直に仕留め、6-1での勝利を手中に収めた。この瞬間、20年間待ち焦がれた優勝が現実のものとなったのである。
グラウンドに溢れ出た歓喜の渦
試合終了と同時に、本拠地のグラウンドにはファンがなだれ込んだ。与那嶺要監督は選手というより、むしろファンの手によって宙を舞うように胴上げされた。鈴木孝政選手も胴上げの輪に加わったが、与那嶺監督の体に触れた記憶はないという。その後、人波に流され、気が付いた時には右翼ポール周辺にいたとのことだ。
この優勝は単なる勝利以上の意味を持っていた。巨人の連覇が「9」で止まり、同時に長嶋茂雄選手が現役引退を表明するという、球界の大きな転換点となったのである。
チームを変えた与那嶺監督の指導
与那嶺要監督は後にこう語っている。「選手には基本をうるさく言った。ギブアップしないことも、何べんも言った。選手はよくわかってくれた。もう昔のチームじゃない」監督になって3年目での優勝、しかも巨人の連勝をストップさせての優勝は、まさに歴史的偉業であった。
鈴木孝政選手はこの経験について、「プロ野球に入ったのなら、経験した方がいい。全然、違う」と語り、日本シリーズでのチームリーダーの覚悟に身震いしたという。成熟し尽くした巨人を乗り越えた原動力は、若い力が束になって戦った結束力にあった。
1974年の中日ドラゴンズの優勝は、単なる一球団の勝利を超え、プロ野球界全体の新たな時代の幕開けを告げる出来事となった。駆け込み寺のような存在としてチームを支えた星野仙一、そして結束した若い力が、巨人の黄金時代に終止符を打ったのである。