選挙の機会を利用して、海外にルーツを持つ人々を排斥しようとするヘイトスピーチが、近年、街頭やインターネット上で深刻な広がりを見せている。市民団体は「選挙ヘイト」への対策を自治体に求めているが、関連法が十分に整備されておらず、実効性のある対応が取られていないのが現状だ。その一方で、差別を許すまいと声を上げる市民の抗議行動が「選挙妨害」に該当する可能性があるとして、法改正を目指す動きも出てきている。選挙ヘイトという複雑な問題に、私たちはどのように向き合っていくべきなのだろうか。
杉並区長選・区議補選を前に市民団体が対策を申し入れ
「選挙運動という名目で、外国人に対する差別や憎悪をあおるヘイトスピーチが繰り返し行われていることが問題となっています」。6月28日投開票の東京都杉並区長選と区議補選を前に、市民団体「杉並から差別をなくす会」など7団体は今月15日、区と区選挙管理委員会に選挙戦でのヘイト対策を講じるよう申し入れた際、こうした認識を示した。
実際、約4カ月前に行われた埼玉県川口市長選では、候補者たちが街頭演説で「外国人を追い出さなければ治安は守れない」「川口市は日本人よりも外国人を優遇している」といった排外主義的な主張や誤った情報を含む発言を展開。これらの発言は交流サイト(SNS)にも拡散され、大きな問題となった。
「票を稼ぐためにヘイトで市民の不安をあおっている」
7団体は申し入れの中で、以下のような具体的な対策を要請した。まず、杉並区のSNSなどで差別的言動を許さないという姿勢を周知徹底すること。次に、立候補者に対してヘイトスピーチ解消法などの資料を配布し、周知を図るとともに、違反する選挙公報やポスターに対しては強い指導を行うこと。さらに、同法に違反する言動を現場で確認し記録すること。また、ネット上の虚偽情報については関係機関と連携して調査や指導を行うこと。そして、選挙後にはヘイト防止対策の効果を検証する会議を開催することなどが盛り込まれている。
申し入れ後の集会では、在日コリアン3世の金正則さん(71)が「候補者が票を獲得しようと、ヘイトで市民の不安をあおり、その影響を受けた生活者が差別意識を抱くという悪循環が起きている」と強い危機感を訴えた。金さん自身も選挙ヘイトの被害を経験している。3年前に日本国籍を取得し、昨年の都議選に杉並区選挙区から出馬した際、SNSで「国へ帰れ」などの誹謗中傷を受け、街頭でも「朝鮮人じゃないか」と言われたという。
ヘイトが急増したきっかけは、同選挙区から都議選に出馬した新人候補の会見に同席した埼玉県戸田市の河合悠祐市議が、金さんを名指しで「売国奴とも言うべき候補者」などと発言したことだった。金さんは「社会で『公正』と認識されている選挙の場での発言によって、市民が『差別してもいいんだ』と後押しされてしまう。各地の選挙でヘイトが街中にばらまかれ、マイノリティーは恐怖を感じている」と指摘する。
選管の対応は「ひ弱」 人権関連業務は所掌外
杉並区選挙管理委員会は22日の定例会で市民団体の申し入れを議論したが、委員たちは難しい表情を浮かべた。そもそも立候補者には憲法で「表現の自由」が保障され、選挙運動の自由も認められている。ある委員は「立候補者への周知徹底は可能だが、それ以上の対応は難しい。チェックとなると、私たちの権限を超えているのが実情だ」とため息をついた。委員長も「人権は守らなければならないと思うが、現状で私たちにできることは少しひ弱だ」と漏らした。
区と区選管は合同で26日、申し入れに対する回答を出した。区民への周知や立候補者説明会での注意喚起は従来通り行うと説明したものの、ヘイトの現場での確認については区は「困難」と回答。ヘイトに対する調査や指導、選挙後の会議体設置については、区選管は「公職選挙法は発言内容の善悪を直接取り締まる法律ではない」「ヘイト対応など人権関連の所掌業務を行う組織ではない」などとして、応じない方針を示した。
同様の状況は中野区でも見られる。6月7日投開票の中野区長選を巡り、市民団体が4月にヘイト対策の要請書を選管に提出したが、担当者は「公選法も万全ではない。現場で人権侵害があっても、最前線で何かできる権限は与えられていない」と応じた。
総務省「公選法では演説内容に特段の制限なし」
なぜ選挙ヘイトを止められないのか。総務省に問い合わせると、「公選法では、選挙運動での演説内容は原則として特段の制限はない」と説明。選管については「公正かつ適正に選挙を管理し、政治的中立性が求められる機関であり、候補者の政見に具体的な介入や干渉はできない」と答えた。
法務省は2019年、「選挙は差別の免罪符にはならない」として、選挙運動や政治活動に名を借りたヘイトなどの差別発言に対し、適切な対応を求める通知を全国の法務局に出している。しかし、2016年に成立したヘイトスピーチ解消法は禁止規定や罰則のない理念法にとどまっており、川口市長選のような事例に歯止めが利かない状況が続いている。
差別反対の抗議活動が「選挙妨害」として規制される可能性
マイクなどで公然と発信される選挙ヘイトへの有効な対策が打てない中で、街頭演説での差別に反対する「カウンター」と呼ばれる市民の抗議活動が、当事者の外国人らの耳に入りづらくなるように声を上げる行為が、「選挙妨害」として法規制される可能性が出てきた。
最高裁は1948年の判決で、演説の妨害は「聴衆が聴き取ることを不可能又は困難ならしめるような所為」と判示している。取り締まり対象とする行為の基準について、政府は昨年8月の国会で「個別具体的な事実関係に即して判断される。基準は存在しない」と答弁した。
日本維新の会は今年5月、公選法を改正して「選挙の自由妨害罪」の適用基準を明確化し、街頭演説での大声などを規制する法整備の検討に入った。2月の大阪府知事・大阪市長ダブル選では、一度は断念を表明した「大阪都構想」を掲げて仕掛けたことや、地方議員が国民健康保険料の支払いを回避した「国保逃れ」への批判もあり、公認候補が抗議活動を受けていた。吉村洋文代表は5月7日の会見で「場を壊す活動だ。候補者や政党の訴えを聞きたい人の聞く権利の妨害は許されない」と主張。参政党の神谷宗幣代表も賛同している。
「カウンターによる抗議も表現の自由で保障される」
だが、ヘイトデモに抗議してきた千葉県在住の在日コリアン男性(63)は「ヘイトを止めようと声を上げる抗議は、民主主義を補完する行動だ。大騒ぎになる現場の方がよほど健全だ」と反論し、「街頭演説でヘイトがたれ流されれば、社会が差別を許容したことになる。差別を放置しないという『芯』がなければ、社会は腐る」と危惧する。
選挙制度に詳しい立命館大学の小松浩教授は「ヤジやカウンターによる抗議も『表現の自由』で保障される。聴衆に考えてもらう機会にもなり重要だ」と強調。2024年の衆院東京15区補選で政治団体「つばさの党」の代表らが選挙妨害したとされる事案を挙げ、「ひどい演説妨害は現行法でも対応している」と維新などの動きを疑問視する一方で、「過度な抗議は第三者の反感を買い、規制強化の根拠や逆効果を招く」とカウンターへの懸念も示した。
「罰則を盛り込んだ人種差別撤廃法の制定を」
選挙ヘイトを防ぐにはどうすればいいのか。ヘイトスピーチに詳しい師岡康子弁護士は「ヘイトは『表現の自由』の乱用だ。外国人への偏見をばらまき、選挙の公正を害している」と指摘し、「差別を禁じ、違反した場合の罰則を盛り込む『人種差別撤廃法』を制定するべきだ」と唱える。
現行法では、路上など公共の場でのヘイトに刑事罰を導入した川崎市の条例を紹介し、「選挙にも適用され、一定の歯止めになっている。有識者による審査会がチェックし、恣意的にはならない」と各地での条例制定を期待する。また、解消法に基づく国の啓発活動として、「法務省が各地の選挙で問題視された事例を収集・調査し、具体例として挙げて『許されない』と周知を図るのも効果的ではないか」と提案する。
デスクメモ
5月29日夜、国会議事堂近くでペンライトを手に「戦争反対」と声を上げる女性の姿に、表現の自由の大切さを実感した。一方で、この自由は無制限に認められるものではない。ヘイトスピーチのような表現の自由を逸脱した差別行為を許さないため、何ができるかを考え続けたい。



