空襲から81年、癒えぬ傷痕と救済を待つ民間被害者たち
東京大空襲から81年を迎えた2026年3月、全国の空襲被害者を救済する法案への注目が高まっている。元軍人らには現在も年間約600億円の恩給が支給されている一方で、民間人に対する国家的な補償は一切ない。死傷者の正確な数さえ不明なまま、身元不明の遺骨は全国に膨大に残されている。実態調査や一時金支給を柱とする救済法案は、いまだ提出すらされていない現状だ。世界中で空襲が続く現代、先の大戦の深い傷痕を抱え続ける被害者たちの声に耳を傾ける。
6歳で失った右足先「お国のためにけがした」
兵庫県在住の男性(86)は、1945年7月24日の津空襲で深刻な負傷を負った。当時6歳の幼稚園児だった。大阪市から母親と妹と共に津市に疎開中、米軍機の爆撃に遭遇。防空壕が水没していたため、家族ら8人は近くで布団をかぶって地面に伏せた。
「爆撃の瞬間は何も覚えていない。後で聞いた話では、40~50メートル先の水田に爆弾が落ちたそうです」と男性は振り返る。最初に感じたのは異変だった。「『おかあちゃん、足ぬくうなってきた』が第一声だったと母から聞きました」。布団を取りのけると、右足は裂け、中指と薬指の間に爆弾の破片が突き刺さっていた。一緒にいた穏やかな祖母は、心臓を貫かれて即死だった。
軍医は膝から切断を勧めたが、母親は「このくらいなら助かる」と考え、その場から逃げ出した。その後、津市郊外の野田地区の一家に約半年間匿われ、近くの医師の治療で切断を免れた。「全くの赤の他人なのに、あの時代にただ飯を食わせてくれた。今でも感謝しています」と男性は語る。
「人目を気にしてきた80年」 隠されたコンプレックス
大阪に戻り小学校に入学したが、駆けっこには参加できず、運動会は見学だけだった。プールの授業では、母親が足先が見えないように袋を作ってくれた。「『カバーするか』って。いじめられるかもしれないと思ったんでしょう」。
男性は「人目を気にしてきた80年」と振り返る。歪んだ靴先を周囲に気付かれないかと常に不安を抱え、引っ込み思案で消極的な性格になった。就職の面接でも口ごもり、入社したメーカーでは定年までけがのことを話さなかった。「本来の性格なのか、けがをしたコンプレックスなのか分からないが、空襲が関係していると思っている。戦争は憎んでいます」と心情を明かす。
救済法制定を求める声 調査と補償の二本柱
学生時代、元軍人には補償があるが民間人にはないこと、空襲被害者の運動が存在することを知った。長年距離を置いていたが、数年前に全国空襲被害者連絡協議会(空襲連)の存在を知り、被害者同士のつながりを求めて連絡を取った。
関連団体の会報には「苦労かけましたとわびてほしい」と記した。「大阪の父親の町工場も金属供出で機械がなくなり、大阪空襲で燃えた。踏んだり蹴ったりです。少なくとも戦争を喜んだ人は頭を下げてほしい。軍人も政治家も財界人も」と強い思いをにじませる。
救済法案の重要な柱の一つが「調査」だ。この男性のような負傷者だけでなく、死者の実数も不明である。現在も引き取られず、施設や寺院に眠る遺骨が全国に存在する。東京都墨田区の横網町公園にある都慰霊堂には、空襲犠牲者約10万5000柱が納められ、そのうち8万1745柱が未だ引き取られていない。名前が判明し個別の骨つぼに納められているのは3678柱のみで、2016年度以降に身元が判明して返還されたのは2024年ごろの1件だけだ。
広島市のDNA鑑定事例 遺骨調査の可能性
注目されるのは、昨年広島市が実施した身元不明の原爆犠牲者の遺髪DNA型鑑定だ。平和記念公園の原爆供養塔内にある骨つぼを調査し、遺髪から13歳の少女と特定する初のケースが生まれた。同市では現在、約40年ぶりに813柱の骨つぼ再調査を進めており、3月中旬までに終了する予定だ。遺髪がある犠牲者は10人以上いると見込まれている。
一方、東京都は都慰霊堂の遺骨は焼かれた骨で遺髪はないとしてDNA型鑑定は行っておらず、骨つぼの再調査についても「現在決まっていない」としている。2016年に父親の遺骨を引き取った永田郁子さん(90)は「遺髪が残っていれば鑑定できなくはない」と再調査に賛同する。
「認めてほしい」 高齢化が進む被害者たちの切実な願い
東京大空襲で母親と2人の弟を亡くし、遺骨が見つかっていない空襲連の河合節子さん(86)も再調査を強く求める。救済法が成立しても、障害者ではない河合さんは一時金50万円の対象にはならないが、調査を定める条項に望みをかけている。「国がちゃんと調査して追悼してくれたら、日本中の民間被害者の遺族としての気持ちが救済される」と訴える。
男性は「戦争でけがしたことをしゃべったのはほぼ初めて」と打ち明ける。救済法の行方を見守りつつ、こう語る。「国民に知ってもらうだけでもいい。お国のためにけがをしましたという痕跡を残したい。戦傷者、戦死者の存在を認めてもらうことが目的です。けがして気の毒でしたね、って言ってほしい」。
かつて取材した東京大空襲経験者の男性は、橋に積み上げられた遺体を目撃し「橋の名はいまでも口にすることができない」と語った。民間人への補償がないことへの怒りを訴えていたが、既に他界している。調査や補償が進まぬまま、当事者は確実に減り続けている。81年の時を経て、なお癒えぬ心の傷と向き合う人々の声は、今も静かに響き続けている。



