「従わんば銃殺」軍命で全住民が山上がり 喜界島81年前の急迫
「従わんば銃殺」軍命で全住民が山上がり 喜界島81年前

81年前の1945年5月、特攻機の中継地となっていた奄美群島の喜界島(鹿児島県喜界町)で、島の全住民を山中に集める軍命が発令された。沖縄に続く米軍上陸に備えたもので、拒否すれば銃殺というこの集団避難は「山上(やまあ)がり」と呼ばれた。結果的に上陸はなく、沖縄の各地で起きた「集団自決」も避けられたが、ぬかるむ壕(ごう)に死を覚悟して身を潜めた記憶とともに、その後の人生を歩んだ人たちがいる。

特攻機の中継地となった喜界島

1945年4月、沖縄本島に米軍が上陸して地上戦が始まると、日本海軍の飛行場があった喜界島は、沖縄へ向かう特攻機の中継地となった。飛行場を狙った米軍の空襲が激しさを増す中、軍から島民への命令が下された。

「命令に従わんば銃殺するっちど」

「戦時でも異常なことだったのでよく覚えている」。当時、13歳だった大倉忠夫さん(94)=神奈川県横須賀市=は、島で「山上がり」と呼ばれた集団避難を振り返る。飛行場そばの中里集落に住み、連日の空襲に見舞われた一家は4月から近くの洞窟に避難していた。5月19日、父親が洞窟に来た区長と深刻な様子で話していた。山への移動を求める軍の命令を伝えられたのだ。

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「すでに避難している。ここに残れないだろうか」。父親が尋ねると、「命令に従わんば銃殺するっちど(銃殺されてしまうぞ)」と区長は怒ったように言った。大倉さんの一家11人は間もなく山へ移動し、壕の中で数週間を過ごした。食料は乏しく、雨でぬかるむ壕の中は過酷だった。しかし、米軍の上陸はなく、島民は無事に帰還した。

この経験は大倉さんの人生に深く刻まれている。「死を覚悟したが、生き延びた。戦争の愚かさを伝えていきたい」と語る。喜界島では、この「山上がり」の記憶を後世に伝える取り組みが続けられている。

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