「いつ帰れっかな」見知らぬ土地で逝った父 原発事故から15年、帰れぬ遺骨と続く苦悩
15年前に発生した東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所事故は、多くの人々からふるさとを奪い去りました。帰りたいと切に願いながら、その願いが叶うことなく亡くなった方々が数多く存在しています。
故郷に帰れぬ約60の遺骨
福島市にある長安寺別院の壁面棚には、およそ60個の骨つぼが整然と並べられています。これらの多くは、本院が所在していた福島県浪江町津島で生活を営み、原発事故によって避難を余儀なくされ、ついに帰還することなくこの世を去った人々の遺骨です。
阿武隈山中に位置するこの山村は、原子力発電所から約30キロメートル離れていました。しかし、風に乗って大量の放射性物質が降り注いだ結果、住民約1400人が避難を強いられる事態となりました。現在でも大部分の区域は居住が不可能であり、津島での納骨に踏み切れない遺族らが寺に遺骨を預け続けているのです。
「親不孝者」と自責する息子の思い
両親の遺骨を同寺に預けている武藤晴男さん(68)は、避難先で亡くなった父の言葉が今も耳から離れないと語ります。
「いつ帰れっかな」「なんでこうなっちゃったのかな」
当時89歳であった父の次男さんが自ら建てた家を離れたのは、事故発生から4日後のことでした。津島は事故直後、原発に近い町中心部からの避難者を受け入れる場所でしたが、状況が急速に悪化し、一転して全域避難が決定されたのです。
「絶対行かない」。父は強く抵抗しましたが、結局車に乗せられました。その後、県内の体育館、埼玉県の親戚宅、茨城県のアパート、そして福島県内の別の自治体へと、見知らぬ土地を転々とする避難生活が繰り返されました。
父は元町議会議員として、事故前は多くの人々が自宅を訪ねてくる活発な生活を送っていました。しかし避難後は、テレビをつけたまま黙って椅子に座る時間が著しく増加。日課であった散歩も行わなくなり、要介護度は二段階も上昇して4という高いレベルに達しました。
避難が招いた母の認知症
母の順子さんは当時79歳。津島では畑や田んぼでの農作業や草むしりに精を出し、近所の友人たちと茶飲み話に花を咲かせる活発な女性でした。地域に根付く田植えなどを助け合う「結い」の慣習にも率先して参加し、常に率先して手伝いに出かけていました。
しかし避難生活が始まると、その快活な性格は次第に影を潜め、家に閉じこもりがちになりました。事故からわずか2カ月後には、散歩に出かけたまま自宅が分からなくなるという出来事が発生。これは認知症の初期症状と診断され、避難に伴う過度のストレスが原因と考えられました。
父は事故の3年後、母は5年後に相次いでこの世を去りました。自宅周辺は現在でも人が住むことができない状況が続いています。武藤晴男さんは「見知らぬ土地で逝かせてしまい、『親不孝者』と自分を責め続けています。家、地域、仲間、多くのものを一瞬で剥奪され、いまも何一つ取り戻せていません」と胸の内を明かします。
叶わなかった「故郷に帰りたい」という願い
事故当時に暮らしていた遠方の地で病気を発症し、津島に戻りたいと願いながら亡くなった人々も少なくありません。
今月5日、佐々木やす子さん(71)は津島の自宅跡近くにある墓前に手を合わせ、「また来るね」と静かに呟きました。ここには事故後にがんによって亡くなった次男の信治さん(当時21歳)らが眠っています。
自衛隊員として勤務していた次男は千葉県におり、病に倒れた後も故郷への帰還を強く望んでいました。しかしその願いは叶うことなく、若い命が失われる結果となったのです。
原発事故から15年が経過した今も、多くの遺族が故郷に戻れぬ遺骨と向き合い、奪われた日常を取り戻せぬまま苦悩の日々を送り続けています。避難生活がもたらした心身への影響は計り知れず、完全な解決の道筋は未だ見えていないのが現実です。



