がん告知100%の挑戦 静岡・共立蒲原総合病院での革命
静岡県富士市にある共立蒲原総合病院。この地方の病院で、30年前に医療界の常識を揺るがす大きな挑戦が始まった。1994年4月、東京大学第一外科から外科部長として着任した平岩正樹医師(72)が、「100%がん告知」と「あきらめないがん治療」を掲げたのだ。
当時の医療界ではタブーだったがん告知
当時、重篤ながんの患者に対しては、告知しないことが医療界の暗黙のルールだった。医師たちは治癒が見込めない胃がんの患者に「胃潰瘍です」と告げるのが普通だった。平岩医師はこの状況に強い焦燥感を抱いていた。
「せっかく有効性が確認された抗がん剤があるのに、自分ががんと知らない患者に副作用を伴う投与はできない。患者も医者もがんと闘う手段が奪われている」と、当時の思いを振り返る。
地方病院での挑戦が常識を変える
国立がんセンターでは当時、ほぼ100%の告知が行われていたが、それは特殊な機関に限られた話だった。平岩医師は「大都市圏ではなく地方の病院で成功できれば、常識を変えることができる」と意気込んだ。
しかし、この挑戦は容易ではなかった。東大の後輩で、平岩医師より1年遅れて蒲原病院に着任した外科医の中島亨氏(58)は「田舎の蒲原で、ちょっと先走り過ぎでは」と危ぶんだ。告知を受け入れられない患者や、家族からの反対に直面することも多かった。
批判と闘いながらの実践
平岩医師の取り組みは医療界からも批判を浴びた。母校・東大の教授からは「アメリカかぶれの野蛮な行為」と強くたしなめる直筆の手紙が届いたという。
雑談で患者の心理を探りながら、オブラートに包んで告知を切り出すのはつらい作業だった。難しいケースでは、部下の医師に代わって行うこともあった。「野蛮人と言われれば、全くその通り」と平岩医師は語る。
患者を味方につけた改革
心の痛みを訴える患者には、ずっと寄り添い話を聞き続けた。ある日、平岩医師を支えてきた中野春雄院長(故人)がつぶやいた。「私は奇跡を見たよ」。それは、笑顔で自分のがんの病状を語り合う入院患者たちの姿だった。
医療界の常識や批判と闘いながら、平岩医師は次第に患者を味方につけていった。1995年4月、100%がん告知の取り組みを外部へ公表すると、病院には全国から患者が押し寄せる「狂騒の幕開け」となった。
30年後の振り返り
平岩医師は現在、当時の挑戦をこう振り返る。「理想のためとはいえ、蒲原病院を踏み台にした。ずっと罪悪感を感じてきた」。しかし、この改革がなければ、多くの患者が最新の抗がん剤治療を受ける道は開けなかった。
静岡がんセンター名誉総長の山口建氏(75)は「国立がんセンターでは当時、ほぼ100%告知していたが、地方の病院での成功が医療界全体の常識を変えた」と評価する。
現在の共立蒲原総合病院は病床数が30年前より減少しているが、平岩正樹医師が切り開いた「100%がん告知」の道は、今や日本の医療現場において確固たる地位を築いている。地方の小さな病院から始まったこの挑戦は、医療界全体に大きな変革をもたらしたのである。



