空がわずかに色づいてきた夕刻近く、川崎宿に着いた倫太郎は小走りになって宿場町を行く。彼は以前から、川崎宿に着いたら『万年屋』で飯を食うと決めていた。
奈良茶飯への期待
その店の名物は奈良茶飯だ。大豆を入れた米を薄い塩味の茶汁で炊き上げたもので、そのまま食べても十分に美味いが、さらに熱い茶汁をかけて茶漬けにして味わうのもまた格別だという。
川崎大師へ向かう道の手前で、大きな障子戸に「万年屋」と書かれた店を見つけた倫太郎は、思わず「あった、あった」と声を上げて走る。入れ込みの座敷にはまだ十人ほどが食事をしており、給仕の娘たちは忙しく立ち働き、客たちは笑顔で美味そうに飯をかき込んでいる。その光景に倫太郎はごくりと喉を鳴らした。
注文と到着
膳を片付けていた小女に「頼む、茶飯をくれ」と大声で注文し、もどかしく感じながら草鞋の紐を解いて小上がりにどかりと腰を据えた。今か今かと足を揺すっていると、背後から「お待たせいたしましたぁ」と小女の愛らしい声が響く。来た!ついに来た。倫太郎の腹がぐうと鳴る。小女が倫太郎の前に膳を置き、「どうぞごゆっくり」と言った。
むむむ。倫太郎は膳に顔を寄せてじっくり眺める。聞いた通り、茶汁で炊いた米は艶よく、飯粒の間から覗く緑の豆が彩りを添えて食欲をそそる。味噌汁はしじみ汁、それに奈良漬けが少々、小鉢は芋の煮物。そして脇には茶汁の用意もある。まずは茶漬けにせず飯から食すか、それともしじみ汁で喉を滑らかにするか――倫太郎が箸を取ろうとしたそのときだった。
突然の騒動
店奥で悲鳴が上がった。一転、あたりが騒然となり、「人が倒れた」「死んだ」と口々に言う声が聞こえてくる。なんだ?どうしたのだ。倫太郎は箸を持ったまま首を伸ばす。「触るな。触るんじゃない。離れろ!」という声に、あたりの者が一斉に動きを止める。倫太郎は声のした方向に眼を向けた。



