「目」で積み上げた3000試合 真鍋審判員の軌跡
「目」で積み上げた3000試合 真鍋審判員の軌跡

その瞬間は、2026年5月6日のデーゲーム、京セラドーム大阪で行われたプロ野球・オリックス対千葉ロッテの8回戦で訪れた。五回終了時、二塁塁審の真鍋勝已さん(57)に花束が贈られた。倉敷市出身の真鍋さんは、日本野球機構(NPB)の審判員として通算3000試合出場を達成したのだ。

21人目の偉業、しかし「通過点」

通算21人目の快挙。帽子を取って深々と頭を下げ、拍手に応えたが、スポットライトはほんの一瞬。試合が再開すると、再び淡々と仕事をこなした。約60人の現役審判員の中で唯一の偉業も、「終わったことにはこだわりがありません。通過点くらいの感覚です」と語る。

夢の挫折からの再出発

32年にわたる歩みは、「夢の挫折」からの再出発が始まりだった。3人兄弟の末っ子として大阪で生まれ、倉敷市児島地区で育った真鍋さん。「一つ上の兄に影響され、気が付けば野球をしていた」。仕事を終えた父が運転するバイクに先導され、5キロほど走るのが幼い頃の日課だった。

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中学時代から快速右腕として注目され、強豪の関西高校(岡山市)に進学。野球部の監督宅に同級生らと下宿し、午後8時頃まで白球を追う日々。朝食前と夕食後の自主練習も欠かさなかった。「とにかく厳しい毎日を過ごした。それ以外、記憶がありません」と振り返る。

プロ野球選手としての挫折

甲子園には届かなかったが、1986年秋のドラフト会議で阪神タイガースから6位指名を受けた。しかし、「色々なことを模索しながら、もがいていた」というプロ生活は、故障もあり一軍出場ゼロ。5年で解雇された。

ただ、最後となった1991年のシーズン中、転機が訪れていた。知人の紹介で会ったのは、セ・リーグ審判部長だった山本文男さん。ユニホームを脱いだ真鍋さんは正式に誘いを受け、審判員を目指し始めた。

審判員としてのデビューと成長

そして1994年10月1日、阪神対広島の26回戦で、三塁塁審としてデビュー。舞台は、一軍選手としては立てなかった甲子園球場だった。徐々に信頼を得て大きな試合も任され、やりがいに満たされていく。

誰かを手本にするのでなく、ストライクやアウト、セーフといった判定の所作などは「今でも、最初に教わった基本を大切にしている」。審判員にとっての夢舞台である日本シリーズも、何度も担当してきた。

「第一感」を信じるジャッジ

判定を誤れば、勝負の行方が大きく左右されかねない。緊張を強いられるジャッジのよりどころとしてきたのは、「第一感を信じること」だという。「一試合一試合、経験を積み上げ、身につけている」という心構えで、磨き抜いてきた「目」だ。

50歳になる頃からは、自転車のロードバイクも始めた。シーズン中にも長距離走行を重ね、オフには何度もレースに出る。金字塔を打ち立てた今なお、「やりたいことや工夫することが増え続け、一日の時間が足りない」と語る。

シニアクルーチーフとしての新たな役割

今年から「シニアクルーチーフ」を任され、関西所属の審判員を束ね、リーダーとして指導も担う重責を負う。「どんな立場であっても一人の審判員。グラウンドに立てば先頭を走りたい」と、やることは変わらない。「私の成功や失敗を見て後輩たちが何かを感じるのなら、それが教育だと思う」と信じるからだ。

今回、読売新聞の取材に文書で応えた真鍋さん。担当した中で特に印象深いゲームを挙げるのは難しいという。過去に執着せず、見据えるのは次の1試合。「今まで通り自分らしく一生懸命に」と心新たにプレーボールを迎える。

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後進や子どもたちへのメッセージを問われると、真鍋さんは「校長センセ宇宙人説」という歌の一節を引用した。「ばかげた夢こそ 見つづけなさい――」

心から望んだ転身ではなかった。「野球しかしてこなかったから」進んだ道でも、それを突き詰めてきた真鍋さん。ゆかりの人の証言も交え、その軌跡をたどる。