東日本大震災から15年、母を失った20歳が語り部として歩み始める
2026年3月11日――「お母さん、成人したよ」。東日本大震災で母・敦子さん(当時37歳)を失った宮城県東松島市の阿部花澄さん(20)は、県内外で被災体験や教訓を語る活動を始めた。幼少時に深く傷つきながらも前を向けたのは、遺品の育児日記があったからだ。「愛されていたんだ」。母の存在を確かに感じながら、看護師への道を歩んでいる。
変わりゆく景色と変わらぬ青い海
千人を超える犠牲者が出た東松島市。あれから高台に新しい家が立ち並び、おしゃれなジェラート店もできた。花澄さんは10日、日本三景の松島に近い海岸を歩きながら、15年の歳月をこう振り返った。
「景色が変わったが、この青い海は変わらない。お母さんとよく遊んだ思い出の場所。嫌いになれず、怒りをどこに向けたらいいか。今も分からない」
震災の日、津波に襲われた避難場所
震災の日、保育所で強烈な揺れに見舞われた花澄さん。迎えに来た父の車で向かったのは、指定避難場所の野蒜小学校だった。約10メートルの津波がこの地区で観測され、命を守るはずの拠点にまで襲いかかった。
父のとっさの判断で裏山へ駆け上がると、がれきを運びながら黒い水が渦巻くように、校舎をのみ込む光景が眼下に広がった。「まるで、巨大な洗濯機の中に街がのみ込まれているようだった」と当時を語る。
ケアマネジャーとして老人ホームで働いていた敦子さんは、足の悪い利用者らを車に乗せ避難中、津波に巻き込まれていた。
母の死を知り、遺品の育児日記に救われる
しばらく母の死を知らなかった花澄さん。「仕事が忙しく、まだ来られないだけ」。身を寄せた親戚宅で弟とそう信じ、「お帰り。寂しかったよ」と書いた手紙を準備して待った。震災から約1週間後の葬儀の日、棺をのぞき込んだ時、初めて死を実感した。
菓子作りもピアノを弾くのも、家にいるときはいつも一緒だった。そんな母のいない生活は、苦しいことが多かった。運動会で家族のそろった友人を見ると、寂しさに襲われた。祖母が母代わりになろうとしてくれたが、中学時代はけんかが絶えなかった。
母の深い愛情を知るきっかけは、遺品から見つかった1冊の古い育児日記だった。何時にご飯を食べ、寝たか。幼き日常が細かく残され、どんな子に育ってほしいかなど希望も書かれていた。
「花のようにかわいらしく、澄んだ心を持つきれいな子になりますように」。名前の由来も初めて知った。母の筆跡を通じ、愛されていたことを感じ取り、心が救われたという。
同じ境遇の仲間と看護師への決意
もう一つ支えになったのは、遺児支援団体が開くイベントだった。同じ境遇の子どもたちとつながり、「独りじゃないんだ」と前を向けた。
「今度は私が誰かを助け恩返ししたい。母が最期までやろうとしたことを引き継ぎたい」。看護師と防災士の目標を見つけ、保健看護学科に入学した。
その大学で語り部ボランティアの募集を知って手を挙げた。震災の話には耳をふさいできたが、「同世代に話す人が少ない中、自分は記憶もはっきりと覚えている」と意を決した。昨年来、北海道などの中学生に経験や思いを伝えてきた。
天国への母との対話が続く
敦子さんを思わない日はない。悩みごとがある度に母の墓を訪ね、手を合わせる。テスト前も二十歳を祝う式典後もそうだった。「お母さんにお願いすると、不思議とうまくいくの」。天国の母との時間は心の中で続いている。
東日本大震災から15年。被災地は復興の道を歩み続ける中、花澄さんのような若い語り部が記憶を継承し、未来への教訓を伝える役割を担い始めている。



