顔も名も知らぬ友の息遣いを感じた時代 岐阜・山あいの合同文集が伝えるもの
交流サイト(SNS)が存在しなかった時代、山あいの小中学生が他地域の子どもと心を通わせる機会は極めて限られていた。北アルプスの麓に位置する岐阜県の旧上宝村(現高山市)では、その距離を埋めるべく、昭和から平成にかけて半世紀以上にわたり、10校以上の小中学校が合同で文集を発行し続けていた。当時の子どもたちの素朴な交流の様子を伝える文章や丁寧に綴られた言葉は、今、SNSが全盛の現代社会に静かな一石を投じている。
険しい山河に隔てられた集落の子どもたち
旧上宝村の面積は名古屋市の約1.5倍にも及ぶ広大な地域だったが、長野県や富山県と接する険しい山々に囲まれ、大雨のたびに橋や道路が流されるなど、集落間の往来が困難な環境にあった。現在は3校に統合されたが、かつては11の小中学校が点在していた。
こうした地理的制約の中、1952年(昭和27年)から2004年(平成16年)まで継続して発行されたのが合同文集「岩つつじ」である。教員組織「村教育会教育研究部会」などが中心となって刊行し、高山市との合併を機にその直前で終刊を迎えた。
創刊号の編集後記には、当時の切実な思いが記されている。「山にはばまれ谷川に境されて、お互いに同村でありながら友達の顔も名前も知り合うことの出来ないわが郷土の各学校の生徒児童に、せめて文集による思想の交換によってお友達相互のつながりを持ちたい」という言葉は、物理的距離を超えようとする教育関係者の強い願いを今に伝えている。
山里の暮らしが生き生きとよみがえる文章の数々
「きのう、にいさんが、たにぐちからやぎをひいてきました」
「母と畑打ちに行く。久しぶりに暑すぎるくらい。汗さえにじみ出てくる」
これらの文章は、旧上宝村の子どもたちが日常のささやかな出来事を綴った作文の一部である。山里の暮らしが生き生きと伝わる作文のほか、詩、短歌、俳句など幅広い創作が「岩つつじ」には収められていた。子どもたちにとって、毎年発行されるこの文集は、ささやかながらも確かな楽しみであり、自分たちの言葉が活字になる喜びを感じる貴重な機会だった。
全54号が一堂に 展示会の意義と継承への思い
「岩つつじ」全54号は昨年秋から、高山市上宝町の「上宝ふるさと歴史館」で展示されている。同館を運営する山内一弘さん(69)自身も旧村の小中学校の卒業生であり、「自分の文章が活字になったときはやっぱりうれしかった」と当時を振り返る。
山内さんによると、歴史館には2018年までに寄付などで全号がそろっていたが、長らく書庫に眠ったままだったという。県外から訪れた教員に文集を見せて感激されたことをきっかけに展示を決意し、ガラスケースに入れて丁寧な説明文を整えた。
合同文集が途絶えた後も、旧村地域の高山市本郷小学校では2007年に後継誌「はちの子」が誕生した。全校児童の作文を掲載し、保護者のボランティアの協力を得ながら、現在まで20年近く発行を続けている。
発刊に携わった同校の佐野浩一元校長(77)は「『岩つつじ』でできたつながりを途絶えさせたくなかった」と語る。寒冷地でも立派な花を咲かせるイワツツジのように、文集に付けられた名の通り、子どもの成長を願い、その足跡を活字に残す意義を見いだしている。
現代における文集作成の課題と可能性
地域と教育の連携について研究する同朋大学(名古屋市中村区)の北島信子教授(教育学)によると、近年は文集の作成を取りやめる学校が増えているという。個人情報に触れることもある作文の掲載について、保護者の同意を得る必要があるなど、教員の負担が大きくなっていることが主な理由とされる。
北島教授は、日本の学校文集のルーツは昭和初期に盛り上がった「生活綴方運動」にあると説明する。子どもたちに日常生活を題材にした作文を書かせようとするこの運動は、地域の実情を子どもたちの目線から捉え直す意義を持っていた。
文集に寄稿する意義について北島教授は「学級や学校、地域に伝えたいことを意識して書くという点にある」と指摘する。大人たちが子どもの目線から地域の課題を再発見することにつながるという教育的価値を強調する。
現代では、児童生徒が早くからスマートフォンを所持し、SNSに慣れ親しんでいる一方で、子どもの抱える問題や課題が大人や学校側に見えにくくなる傾向もある。「岩つつじ」のように学校をまたいで文集を作る実践は歴史的に多くなかったが、「さまざまな教育課題がある現代こそ、学校と地域が協働で取り組むのに学校文集は適している」と北島教授は各地の活動に期待を寄せている。
山あいの小さな集落で生まれ、半世紀以上にわたって継承されてきた言葉の交流。デジタル技術が発達した現代においても、手書きの文字が紡ぐ人間同士のつながりの深さと温かさは、失ってはならない貴重な財産として静かに語りかけている。



